アメリカの「影の大統領」、ピーター・ティールの思想とは?
[橘玲の世界投資見聞録]

2018年5月24日公開(2018年5月24日更新)
橘玲

ティールの言動は常識の範疇を超える

 ティールの「友情」の定義が一般とは異なるように、その言動にはときに常識の範疇を超えるものがある。論理数学的知能が極端に高いとおうおうにして言語的能力が阻害されるが、そうした欠落によるものなのか、あるいは凡人には理解できない計算に基づくものなのかはわからないが、そこに一貫した(わかりやすい)ロジックを見つけることが難しいのだ。

 ティールのわかりにくさを象徴するのが、2016年7月、トランプが大統領候補に指名された共和党全国大会での演説だ。白人保守派の熱狂的な支持者を前にして、ティールはこう述べた。

 「私はゲイであることを誇りに思います。私は共和党員であることを誇りに思います。でもいちばん誇りに思うのは、自分がアメリカ人であることです」

 はたしてティールは、ゲイであるとカミングアウトすることがトランプのヒラリー・クリントンとの選挙戦の応援になると考えたのだろうか。それとも、同性愛者に対して差別的な共和党に対して、大統領候補指名という一大イベントを利用して一矢報いようとの計算ずくの発言だろうか。あるいはそれ以外の(自分のPRや今後の政治活動への布石などの)目的があるのかもしれない。

 ティールが創業したパランティアはビッグデータを使ってセキュリティ管理を提供するベンチャーで、最大の顧客はCIAとFBIだ。9.11同時多発テロに衝撃を受けたティールは、「アメリカの自由と安全」を守るためにテクノロジーを活用し、ビッグデータからテロリスト予備軍を抽出し犯罪を未然に防ごうと考えた。

 これだけならオーウェルが『1984』で描いたビッグブラザー(超監視社会)そのものだが、ティールはパランティアを「プライバシーと治安のゼロサム・ゲーム」を書き換える企業と定義し、「私たちは政府の干渉から守られ、しかも私たち全員が、一人ひとりちがう存在でいられる場所を確保しなければなりません」と説明している。

 ティールによれば、私たちは自由に生きるためにこそ効率的に監視されなければならないのだ。――もちろんこれも、どこまでが本心なのかはわからない。

不死のテクノロジーをリバタリアニズムと結びつけるティール

 2009年4月、ティールは保守派のシンクタンク、ケイトー研究所の論壇フォーラムCATO UNBOUNDに「リバタリアンの教育“The Education of a Libertarian”」という短いエッセイを寄稿した。ラッポルトの本でもこの文章はティールが自らの政治思想を語ったマニフェストと位置づけられているが、やはり読み手を混乱させる。

 ティールは冒頭、次のように書く。

「私は、10代の頃に抱いた信念―至高の善の前提となる真の人間的自由(human freedom)-にいまだにコミットしつづけている。私は、搾取的な税制、全体主義的な集産制、死を不可避なものとするイデオロギーに立ち向かっている。これらすべての理由から、私は自分自身を“リバタリアン”と呼んでいる」

 リバタリアニズムは自由を至高のものとし、国家(権力)こそが個人の自由を抑圧する元凶だと考える。そのため、国家の暴力行使である徴税に反対し、国家権力のもっともグロテスクな姿である社会主義・共産主義などの「全体主義的な集産制」を批判するのだが、不死のテクノロジーをリバタリアニズムと結びつけるのはティールの独創だ。

 ティールの不死へのオブセッションは、パッカーが(インタビューに基づいて)次のように描写している。これも興味深い記述なので引用しよう。

 ピーター・ティールが死について知ったのは3歳のときだった。1971年、クリーヴランドのアパートで家族と暮らしていた彼は、自分の座っている敷物に目をとめた。ピーターは父親に訊ねた。「これは、どこからきたの」
「牛だよ」。父は言った。(中略)
「牛はどうなったの」
「死んだんだよ」
「どういうこと?」
「つまり、牛はもう生きていないんだ。すべての生き物は死ぬ。すべての人間もね。いつか私も死ぬ。いつかお前も」
 この話をしているとき、父は悲しそうに見えた。ピーターも悲しくなった。この日はひどく不安な一日となり、ピーターは二度とその不安を遠ざけることができなくなった。シリコンバレーの億万長者となってからも、死について思うとどうにも心がかき乱された。40年のときを経た現在も、最初に味わった衝撃がはっきりと胸に刻まれている。ほとんどの人々は死を無視することで死と和解する術を身につけるが、ピーターにはどうしてもそれができなかった。和解とは群衆が何も考えずに運命を受け入れる黙従にすぎない。牛革の敷物に座った少年は成長し、死の必然性をすでに1000億の命を奪った事実としてではなく、イデオロギーとして認識するようになった。

 いうまでもなくこれは、シンギュラリティ(技術的特異点)によって人工知能が人間の知性を超え、老化や死を克服する“ポストヒューマン”が誕生するという未来学者レイ・カーツワイルの主張と通底している。

シースティング・プロジェクトこそがもっとも現実的なリバタリアンの目標

 ティールの「リバタリアンの教育」は、晦渋な用語こそないものの、その真意を測りかねる文章があちこちにある。たとえば「1920年代以降、生活保護受給者の急増と女性の選挙権の拡大―リバタリアンにとって悪名高いほど手ごわい2種類の有権者―によって、“資本家のデモクラシー(capitalist democracy)”の思想は矛盾語法(oxymoron)になってしまった」という記述。

 これをふつうに読めば、「資本家」と「デモクラシー」は本来は調和しているものだが、生活保護受給者と女性に選挙権を与えたことでそれが引き裂かれてしまった、という意味になる。(当然のことながら)女性の参政権を否定しているのかとの批判を受け、編集部が本人に確認したところ、ティールは「しばしばジェンダーギャップと呼ばれる投票パターンについてのありふれた統計的観察」を述べただけで、「どのようなひとも選挙権を取り上げられるべきではないものの、投票がものごとをよくするというほんのわずかな希望も抱いていない」とさらに困惑させる“説明”をしている。

 こうした難所をすべて無視してざっくりいうならば、ティールはこの論文で政治(Politics)に対する絶望を告白している。それはリーマンショック後に、野放図な金融機関を国家が莫大な公金を投じて救済したことで権力がますます肥大化することが確実になったからで、こうした「政治」から逃れるためにリバタリアンは、テクノロジーによる新たな自由の領域を開拓しなければならないと説く。

 ここでティールは、(1)サイバースペース、(2)アウタースペース(宇宙)、(3)シーステディング(海上自治都市)の3つの可能性を挙げているが、サイバースペース(ペイパルやフェイスブック)は個人の自由の領域を拡張したものの、それはしょせんヴァーチャルなものでしかなく、アウタースペースのフロンティアはリアルな自由を実現できるかもしれないがそれにまだ時間がかかる。そう考えれば、パトリ・フリードマン(経済学者ミルトン・フリードマンの孫)が手掛けるシースティング・プロジェクト(どこの国にも属さない公海上に人口の島をつくり「独立自由国家」を樹立する)こそがもっとも現実的なリバタリアンの目標となる、と主張している。

 ただし論文から何年たっても「リバタリアンのための自由国家」は建設の兆しすらなく、ティールは2014年時点で、これ(シーステディング)は「ごくささやかなプロジェクト」であり、実現は「はるか遠い将来になるでしょう」と述べている。

 ラッポルトは、このことがティールをトランプ支持に向かわせたのだと考えている。「政治」から逃れる術がないのであれば、自ら「政治」に介入するほかはない。その目的は、テクノロジーによって自由な空間をつくるプロジェクトを国家権力に邪魔させないことだ。

 この意味では、「大きな福祉国家」を目指すヒラリーよりも、規制のことなどなにも考えていない(自分のことにしか興味のない)トランプの方がずっと好ましいのだ。

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ティールとトランプファミリーとの関係


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