意識が変わった瞬間

中原健聡(以下、中原):私は、ファーストキャリアでサッカーをスペインでプレーしていた時に、自分の人生を深く考える機会がありました。日本と比べてスペインのサッカーマーケットは世界の中で大きいので、世界中からお金が集まり、プロで稼げる金額も大きく違います。そんなとき、チームメイトから質問をされました。

「何のためにサッカー選手になったんだ?」

 私は率直にこう答えました。

「スペインでサッカー選手になりたかったからだよ」

 私がプレーしていた当時は、スペインリーグで認められたアジアの選手はゼロと言っていいと思います。スペインリーグでアジア人が活躍できるという認知はほぼ皆無で、だからこそ、アジア人として成功したいという気持ちを伝えたかったのです。すると、チームメイトはこう返してきました。

「何を言っているんだ。おまえは質問に答えていない。何のためにサッカー選手になったのか聞いたのに、自分がプレーすることが夢というのはおかしくないか? おれが聞いているのは、何のための手段かだ」

 正直に言えば、そんなことなど考えたこともありませんでした。サッカーで稼げる嬉しさと他者から称賛される誇らしさの一方で、チームメイトの問いに答えられない自分の存在価値に疑問を持ちました。悶々とするなか、チームメイトに「おまえはどうなんだ?」と問い直しました。

「黒人の尊厳を上げるためだ」
「俺と同じ肌の色をした子どもたちが世界中に何人いるか知っているか? 文化的背景を理解しているか?」
「サッカーW杯は、スポーツの興行では世界最大だ。ワールドカップでベスト8以上の試合になると、試合開始前にキャプテンが必ず人種差別の撤廃を宣言しなければゲームが始まらない。だからあの瞬間は、文化的背景や宗教などにとらわれず、サッカーという表現を通じて世界中の人の注目を集め、メッセージを出せる機会だ。だからサッカー選手を選んだんだ。」

 その言葉を聞いて、私とチームメイトの社会的価値の圧倒的な差に愕然としました。それが僕が23歳の時です。

 そこからは、プレーを続けながら自問自答するなかで、日本のことをよく調べるようになり、そこから日本社会の在り方に違和感を覚え、教育を軸に生きようと決めました。そして、チームメイトの様に2014年のワールドカップを活用して、日本全体に影響を与えようと決めたのですが、代表に選ばれなかったので、キャリアシフトして現在に至ります。

中原健聡 Teach For Japan中原健聡(なかはら・たけあき)
Teach For Japan代表理事
2011年に大学卒業後スペインへ渡り、サッカー選手として2014年までプレー。サッカー選手時代に「何のためにサッカー選手をしているのか」という問いを持ちながら、キャリア教育で日本の中・高・大学生へ講演をしたことを機に、「生きたいように生き続ける人であふれる社会の実現」をVisionに教育分野での活動開始。帰国後は大学で事務職員をしながら日本の学校制度について調べ、現場に出ることを決意し、Teach For Japanのフェローシップ・プログラム3期生として公立小学校で勤務。フェローシップ・プログラム修了後は、札幌新陽高校に校長の右腕として着任し、学校経営・開発に携わり、2018年に新陽高校で「偏差値ではなく経験値、最終学歴ではなく最新学習歴の更新」を軸にしたProject Based Learningによるライフスキルの開発に特化した探究コースを創設。2019年よりTeach For JapanのCEOに就任し、問題が複雑で答えがわからず、必要な変化を実現するためのリソースや権限を単独で持っているプレーヤーが存在しない公教育の改革、教育格差の解消に向けて、コレクティブ・インパクトによる社会課題の解決に挑戦している。2021年より経済産業省産業構造審議会臨時委員に就任し、教育イノベーション小委員会メンバーも務める。

平尾:早いですよね。23歳でそれに気づけるというのは。やはり若いころからボーダーレスかつ、グローバルの人との接点がある人は強いですね。

中原:でも、チームメイトに問われなかったら気づいていません。本当にいいメンバーに出会いました。

平尾:私は、生まれが貧しくて母に楽をさせたいというのが起業の動機でした。だから、起業時から社会を変えようと思って会社をたちあげられなかったところからスタートしています。

 ただ、年齢が上がってくるにつれて、マズローの欲求五段階説の階段を上っていくと、起業家としての自己実現の先に何があるのかを考えると、悶々としていました。考えれば考えるほど、身につけてきた能力や時間は社会のためにつかうべきだと思いました。そこから、第六次元と言われる「自己超越欲求」に目覚めていきました。

 自分が23歳のとき父親を53歳で亡くしたのですが、20代にして死生観が芽生え30歳で上場し、それからがむしゃらに頑張る30代を過ごし、40代が見え始めてようやく「何かを獲得するKPI」だけでなく、「何かを残すKPI」も見なければならないと思ったのです。お恥ずかしいのですが。

渡邊:いやいや、私がそんなふうに考えたのは、もっと遅いですよ。むしろ、自分のことばかり考えていました。

――意識転換があったのは、いつごろでしたか。

渡邊:40代半ばぐらいでした。でも、私は何でも自分の気持ちが動かなければ何もしないんですよ。自然に任せていたらそうなっただけです。

――無理やり社会課題を解決しなければならないと考える人もいるようですが。

渡邊:今、日本では社会起業家が流行りでしょ? それに影響されているのではないでしょうか。無理やり思う必要はないですよ。

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