「自分はできる」という呪い

私は、新しいアルバイトをするといつも、誰に従えば正解で、誰を怒らせなければ自分の地位は安定したままでいられるのかということをまず判断する癖がついてしまっていた。
そんな経験を、大学のコミュニティ、アルバイト先、社会人になった職場で積んでいた。どの職場でもそういったことは起きた。これは毎回起こることなんだろうと思っていた。

これが社会の常識なのだと、なかば諦めていた。同時に、人間としての尊厳や道徳心なんかよりも、「嫌われたくない」という気持ちを優先させてしまっている自分に、辟易していた。けれど、どうしようもなかった。「どんなときも公平な態度でいたい」と強く決意するたび、かつてクラス中から向けられた、嘲笑の目が蘇った。いくつも並んだたくさんの目は、私が失敗し、恥をかき、焦ってそそくさと自分の席に戻っていく無様な姿を望んでいた。

そしてそれはきっとコミュニティを変えたところでどうにかなるものではないのだ、と思った。どの集団にも、どの職場にも「できない社員」はいて、「悪口を言われる対象」がいる。いないと困るのだ。
だってそいつがいる間は、最低限、自分は「できないやつ」扱いされずに済むからだ。
これが、私たちにかけられている「呪い」である。

「自分はできる」という呪い。
いや、むしろ、別の言い方をすれば、「自分よりできないやつがいる」という呪いである。
「私はビリじゃない」という、呪い。
「ビリじゃないから、あいつよりまだマシだから、頑張らなくていい」と言い訳することほど、愚かなことがあるだろうか。
集団組織にいる限り、自分を守るために無意識に、そんな呪いをかけてしまっているんじゃないか──。
そんなことを、思うようになった。
そして、この呪いがいつか解けることを、そんなものに振り回されない自分になれることを、願っていた。

「仕事のできない社員さん」になって気づいた後悔

その後、数年経過し、私は飲食店の「店長」として働くようになった。

結論から言えば、私はあの頃に自分が悪口を言っていたような
「仕事のできない社員さん」であり、
「いつも忙しそうでスタッフの管理ができていない店長」であり、
「訴えても何もしてくれないマネージャー」になってしまっていた。

学生のアルバイトに何度も迷惑をかけた。人手が足りず、予算達成もできず、上からのプレッシャーと板挟みになっていた。私が仕事ができないせいでスタッフに負荷がかかって信頼を得ることができず、「川代さんが店長になってからお客さん減りましたよ」と言われたこともあった。一時はごっそりとスタッフが抜けてしまい、わずかな数のスタッフで店を回していた時期もあった。自分の不甲斐なさへの怒りで、毎日仕事に行くのが怖くて、会社にも申し訳なくて、しょうがなかった。

そしてそんなとき、真っ先に脳裏に浮かんでくるのは、大学生の頃、「できない社員」に悪口を言う仲間に賛同していた私の姿だった。

「〇〇さんって本当仕事できないですよね」
「なんであんなに気が利かないんだろう」
「またあんなミスしてた」

盛大なブーメランというのはこのことか、と思った。
もしもあの頃の私が、今の私に出会ったとしたら、きっと今の私の悪口を言うだろうと思った。「川代は使えない」と言うだろうと思った。批判するだろうと思った。「あいつはダメだ」と散々愚痴を吐くだろうと思った。
その程度だったのだ。

私という人間など、その程度だったのだ。
そして一番の問題は、私が「その程度の人間」だという事実ではなく、「その程度の人間」であると気がついていなかったという事実だった。