マーチエキュート2013年に整備された万世橋駅跡付近の高架橋下「マーチエキュート」 Photo by Kenichi Tsuboi

新橋-横浜間の鉄道開業が1872(明治5)年、ちょうど150年前のことだ。これを記念した展覧会やさまざまなイベントが全国で開催されている。ダイヤモンド社の旧社屋は千代田区の東南端にあったので、新橋や有楽町にも近かった。新橋-東京間の高架橋下の飲み屋、喫茶店、食堂は頻繁に訪れていた。あの「赤レンガ高架橋」は鉄道開業の30年後、明治末に出来上がったもので、100年以上前のたたずまいがそのまま残っている。鉄道のアニバーサリーを祝し、一人で100年前の赤レンガ高架橋下を全部歩いてみた。(コラムニスト 坪井賢一)※本文中の写真は全て筆者撮影

100年前の赤レンガ高架橋下を全部歩いてみた

 東京駅が完成当時(1914年)の姿に復元され、ピカピカの赤レンガ近代建築が復活したのが2012年だから、2022年は復元10周年でもある。また、鉄道開業時の新橋駅は汐留にあり、旧駅舎も2003年に復元されて博物館となり、まもなく20周年を迎える。

 新橋-横浜間の鉄道開業後、明治政府が新橋から神戸までの東海道線を全通させたのが1889(明治22)年だった。一方、民間企業の日本鉄道は上野駅を起点として北関東や東北へ鉄路を延ばす。上野-熊谷間の開通は1883年で、東京駅の開業より30年も早い。

 新橋-上野間はどうして鉄道開通が遅れたのかというと、この区間の銀座、日本橋、神田などは江戸時代から商工業が繁栄し、劇場や寺社、そして住宅が密集し、道路も四通八達して鉄道を通す平面上の余裕がなかったのである。

 そこで、明治政府はドイツから招いていたお雇い外国人技術者ヘルマン・ルムシュッテル(1844-1918)の提案を受け入れ、高架のベルリン市街線(Berliner Stadtbahn)をモデルに、「アーチ式赤レンガ高架橋」を建設することにした。

 施工の技術者としてドイツからフランツ・バルツァー(1857-1927)を招き、「新永間市街線高架橋」計画が始まる。新永間建築事務所の設立が1896年で、帝国大学工学部から卒業生を次々に雇い入れて工事が開始されたのが1909(明治42)年だった(注1)。

「新永(しんえい)」の「新」は旧町名の新銭座(東新橋)、「永」は永楽町(大手町)のことだ。この土木工事の一環として中央停車場(東京駅)の建設も含まれていた。上野から東京方向へは、民間企業の日本鉄道が建設を開始したが、1906年に鉄道会社は国有化されている。東京駅と同様、辰野金吾(1854-1919)が設計した赤レンガの万世橋駅が1912(明治45)年に開業した。

 新橋-上野間の鉄道高架橋を「東京市街線」という。新橋-東京間の工事は5工区に分けられ、鹿島や清水建設など後年のゼネコン各社が担当した(注2)。

(1) 金杉橋-汐留町通(高架への盛土)
(2) 汐留町通-烏森(新橋駅)
(3) 二葉町河岸通-有楽町駅
(4) 有楽町駅-鍛冶橋通
(5) 鍛冶橋通-中央停車場(東京駅)

 過日、この(1)から(5)まで歩いてみた。(1)の痕跡はあまりない。(2)も「烏森口」という駅の一部名称に残るくらいか。(3)からスタートする。