分子古生物学者である著者が、身近な話題も盛り込んだ講義スタイルで、生物学の最新の知見を親切に、ユーモアたっぷりに、ロマンティックに語るロングセラー『若い読者に贈る美しい生物学講義』。養老孟司氏「面白くてためになる。生物学に興味がある人はまず本書を読んだほうがいいと思います。」、竹内薫氏「めっちゃ面白い! こんな本を高校生の頃に読みたかった!!」、山口周氏「変化の時代、“生き残りの秘訣”は生物から学びましょう。」、佐藤優氏「人間について深く知るための必読書。」、ヤンデル先生(@Dr_yandel)「『若い読者に贈る美しい生物学講義』は読む前と読んだあとでぜんぜん印象が違う。印象は「子ども電話相談室が好きな大人が読む本」。科学の子から大人になった人向け! 相談員がどんどん突っ走っていく感じがほほえましい。『こわいもの知らずの病理学講義』が好きな人にもおすすめ。」、長谷川眞理子氏「高校までの生物の授業がつまらなかった大人たちも、今、つまらないと思っている生徒たちも、本書を読めば生命の美しさに感動し、もっと知りたいと思うと、私は確信する。」(朝日新聞2020/2/15 書評より)と各氏から評価されている。今回は「進化論」をテーマにした書き下ろし原稿をお届けする。

「あなたの先祖はサルですか?」ダーウィンの進化論をめぐる「大論争」の意外な事実Photo: Adobe Stock

オックスフォード論争の真実

 今から160年以上も前の話である。1860年にイギリスのオックスフォードで、イギリス科学振興協会の会合が行われた。ちょうどダーウィンの『種の起源』が出版された翌年のことだったので、進化論について活発な議論が行われた。

 そこで、ダーウィンのブルドッグと言われた生物学者のトマス・ヘンリー・ハクスリーとサミュエル・ウィルバーフォース大司教が、激しく論争したと言われている。ちなみに、ダーウィンは体調が悪くて欠席していた。

 ウィルバーフォース大司教はハクスリーに、「あなたの先祖はサルだということですが、それはお祖父さんの側ですか、それともお祖母さんの側ですか」と尋ねたが、ハクスリーは見事に切り返し、論争はハクスリーの勝利に終わったという。

 ただし、発言についての正確な記録はなく、実際に2人が何を言ったのかはよくわかっていない。おそらく、このウィルバーフォース大司教の発言も事実ではないだろう。なぜならウィルバーフォース大司教が、そんな愚かな発言をするとは思えないからだ。

進化論のメカニズム

 ダーウィンといえば進化論、進化論といえば自然選択というイメージがある。自然選択というのは生存や繁殖に適した個体が生き残ることで、進化のもっとも重要なメカニズムだ。

 いっぽう、当時のキリスト教徒のなかで進化論を認めない人たちは(当時のキリスト教徒のなかにも進化論を認める人はいた)、自然選択も認めなかったイメージがある。でも、そんなことはない。進化論を認めない人々のなかにも、自然選択を認める人はいたのである。

 つまり、当時のキリスト教徒には3通りの人々がいたわけだ。進化論も自然選択も認めない人と、進化論は認めないが自然選択は認める人と、進化論も自然選択も認める人だ。そして、ハクスリーと論争したウィルバーフォース大司教は、真ん中の、進化論は認めないが自然選択は認める人だった。

 じつは、ウィルバーフォース大司教は自然選択を、生物を進化させない力だと考えていたのである。ちなみに、進化論も自然選択も認めたキリスト教徒としては、その文章が『種の起源』にも引用されているイングランド教会の聖職者、チャールズ・キングズリーが有名である。

「安定化選択」と「方向性選択」

 それでは、どうしてウィルバーフォース大司教は、自然選択を進化させない力と考えたのだろうか。

 たとえば、仮に、私たちの身長が非常に高かったり非常に低かったりすると病気になりやすくて、身長が中ぐらいの人がもっとも健康だとしよう。その場合は、身長が非常に高かったり低かったりする人は自然選択によって除かれるので、自然選択は身長を変化させないように働くことになる。このような、生物を変化させない自然選択を「安定化選択」という。

 いっぽう、こちらも仮にだが、食糧事情が悪くなって、食事が少なくて済む身長の低い人のほうが、身長が高い人よりも有利になったとしよう。この場合は、身長が低くなるような方向に自然選択が働くことになる。

 このような、生物を変化させる自然選択を「方向性選択」という。そして実際の自然界では、両方の自然選択が働いていることが知られている。

 オックスフォードの会合では、おそらくハクスリーは方向性選択を、ウィルバーフォース大司教は安定化選択を強調して論争したのではないかと推測される。もし、そうであれば、2人とも、ある意味では正しく、ある意味では正しくなかったのだ。

いまも生まれる「おかしな進化論」

 生物の進化には、方向性選択と安定化選択の両方が必要だ。もし片方しか考えないと、おかしな進化論が生まれてしまう。そしてじつは、おかしな進化論は、オックスフォードの会合から160年以上も経った現在でも生まれ続けている。

 たとえば、宇宙を飛び交う放射線、つまり宇宙線が強くなると、生物のDNAに突然変異がたくさん起きて、進化速度が速くなるという説だ。もしも、方向性選択しかなければ、それは正しいだろう。

 でも実際には、安定化選択も働いている。安定化するところまで、速く変化したところで、どうせ安定化してしまえば同じなのだから、進化速度には関係ないのである。

(本原稿は『若い読者に贈る美しい生物学講義』の著者更科功氏による書き下ろし連載です。※隔月掲載予定)