1999年、若きイーロン・マスクと天才ピーター・ティールが、とある建物で偶然隣り同士に入居し、1つの「奇跡的な会社」をつくったことを知っているだろうか? 最初はわずか数人から始まったその会社ペイパルで出会った者たちはやがて、スペースXやテスラのみならず、YouTube、リンクトインを創業するなど、シリコンバレーを席巻していく。なぜそんなことが可能になったのか。
その驚くべき物語が書かれた全米ベストセラー『創始者たち──イーロン・マスク、ピーター・ティールと世界一のリスクテイカーたちの薄氷の伝説』(ジミー・ソニ著、櫻井祐子訳、ダイヤモンド社)がついに日本上陸。東浩紀氏が「自由とビジネスが両立した稀有な輝きが、ここにある」と評するなど注目の本書より、内容の一部を特別に公開する。

【呆然】イーロン・マスクが「銀行は大バカ」と呆れた理由Photo: Adobe Stock

兄弟で南アフリカからカナダに移住

 イーロン・マスクの金融界での冒険は、大学時代に始まった。

 イーロンと弟のキンバルは80年代の終わりごろに南アフリカからカナダに移住して、オンタリオ州キングストンのクイーンズ大学に通っていた。二人は有名人と知り合うために、新聞で見つけたおもしろそうな人に片っ端から電話をかけた

 あるときイーロンは、ノヴァ・スコシア銀行(スコシアバンク)の経営幹部、ピーター・ニコルソン博士の記事に目を留めた。ニコルソンは物理学とオペレーションズ・リサーチを修め、政治や政策、金融の世界に科学の知見を取り入れた人物だ。ノヴァ・スコシア州議員に選出されたり、カナダ首相府で副首席政策補佐官を務めたこともある。多彩なキャリアを通じて、パンチカード式コンピュータからカナダの漁業会社の漁業権共有協定までのあらゆる問題に取り組んでいた。

 マスクは興味を引かれ、記事を書いた記者からニコルソンの電話番号を聞き出すと、早速電話をかけた。「突然、仕事をくれなんて言って電話をかけてきたのは、イーロンだけだよ」とニコルソンはほほえむ。マスクの度胸に感心したニコルソンは、イーロンとキンバルと食事の約束をした。

 三人は昼食を取りながら「哲学や経済、世の中の仕組み」について語り合った。マスクは記事を読んで感じた、「めちゃくちゃ賢い巨大な脳の持ち主」という印象が間違っていなかったと確信した。

 インターンとして働かせてほしいと二人が切り出すと、ニコルソンはスコシアバンクの自分の小さなチームに席が一つだけあると言った。ニコルソンの科学的志向に共感したイーロンがその席をもらうことに決まり、ニコルソンは彼を一人だけのインターンとして自分の手元に置いた。

 ピーター・ニコルソンも栄誉を得た。イーロン・マスクの数少ない上司の一人になったのだ。(中略)

マスク、銀行に勤める

 19歳のインターンのマスクにとって、これは金融界を最上部から俯瞰する絶好の機会となった。彼は早くも才能の片鱗を見せていた。「非常に優秀で、非常に好奇心が強かった」とニコルソンは言う。「すでに物事をとても大局的に捉えていたね」

 仕事以外の時間にはニコルソンと「クイズをしたり、物理学や人生の意味、宇宙の本質について語り合ったりして過ごした」とマスクは言っている。ニコルソンによれば、マスクは当時から、ある分野に特別な関心を持っていた。「彼が本当に愛していたのは宇宙だった

 インターンシップの間、ニコルソンはマスクにどんどん難しい課題を与えた。その一つが、スコシアバンクの中南米向け債権ポートフォリオを分析するというプロジェクトだ。北米の銀行は70年代に発展途上国、とくに中南米の数か国に、経済の急成長を当て込んで数十億ドルの融資を行った。だが80年代になると成長は落ち込み、新興国の債務危機と融資した銀行の経営危機が取りざたされ始めた。

 さまざまな対応措置が取られたが、いずれも失敗に終わった。ニコルソンを含む多くの専門家は、不良債権の証券化、すなわち債券への転換が、最善の解決策だと考えた。銀行は金利の固定化と返済期限の延長に同意し、その見返りとして、新しい債券を公開市場で売買できる。成長が再開すれば理論上は債券の値上がりが見込めるはずだ。たとえそうならなくても、国や銀行が連鎖的にデフォルトを起こし世界恐慌を招くという破滅的なシナリオよりは望ましい。

 アメリカ財務長官ニコラス・ブレイディはこの案を支持し、その結果生まれた債券は「ブレイディ債」と呼ばれた。ブレイディ債は米ドル建てで、アメリカ財務省とIMF(国際通貨基金)、世界銀行が保証を与えた。89年にメキシコが初めて債務交渉に合意し、他国もあとに続いた。「ブレイディ債の流通市場がすぐに生まれた」とニコルソンは語る。

「50億ドル儲かりますよ、いまこの瞬間に」

 実を言えばニコルソンは、中南米向け債権の課題で、とくに成果を期待していなかった。たんに飽きっぽいマスクを熱中させるほど手強い課題を与えただけのつもりだった。ところがマスクはブレイディ債の市場を詳しく調べ始めると、たちまちそこにビジネスチャンスをかぎつけた。

 マスクがブレイディ債の保証にどれだけの価値があるかを計算してみると、それよりはるかに安い金額で、債権そのものを他行から購入できることがわかった。マスクはニコルソンに内緒で、ゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレーなどのアメリカの金融機関に電話で問い合わせた。「僕は19歳かそこらの若造だったけど、『こちらはスコシアバンクですが、この債権はいくらで買えますか』なんて聞きまわっていた」

 マスクは莫大な利ざやを稼ぐチャンスを見出した──他行から不良債権を安く買い入れ、ブレイディ債に転換されるまで持っていたらどうだろう? 数十億ドルの利益が得られるうえ、理論上はアメリカ財務省とIMF、世界銀行の保証付きだ。早速ニコルソンにこのアイデアを持ちかけた。

債権を買い占めましょう。どこの銀行も大馬鹿ですよ、絶対に損しない投資スキームなのに」とマスクは言った。「50億ドル儲かるんです、いまこの瞬間に」

「銀行は新しいことは何もできない」

 銀行の経営陣はそうは考えなかった。カナダの他行は途上国向け債権をすでに売却して莫大な損失を計上していたが、スコシアバンクだけは含み損を抱えたままブラジルとアルゼンチン向け債権を数十億ドル保有していた。このリスクで取締役会の批判を受けていたCEOは、これ以上のリスクを、ましてや新しく不確かなブレイディ債のリスクを積み増す気などなかった。

 マスクは啞然とした。これは過去とは何の関係もない話だ。ブレイディ債はたしかに新しい。だがまさにそこが、このスキームの肝なのだ。

「だからこそ債権が売りに出されていた。どこの銀行のCEOも愚かで横並びの考え方に囚われていた」とマスクは息巻く。「莫大な利ざやを得るチャンスが目の前にぶらさがっているのに、銀行が何もしないのを見て仰天したよ」

 ニコルソンは、CEOセドリック・リッチーの決定に理解を示す。中南米向け不良債権を保有し続けていたスコシアバンクは、他行よりも大きなリスクにさらされていた。「イーロンは当時よくわかっていなかったかもしれないが、スコシアバンクは含み損が大きすぎて債権を損切りできなかったんだ。そこに、さらに債権を買い増す? それはできない相談だった」

 リッチーにもマスクにも同じ先見の明があったと、ニコルソンは言う。リッチーは途上国向け債権を保有し続けるべきだと考え、マスクは買い増すべきだと考えた。最終的にどちらの正しさも証明された。1989年から1995年にかけてさらに13か国が債務交渉に合意し、債務は売買可能な債券に転換されたのだから。

 マスクはこのときのインターン経験から、「銀行がいかに能なしか」を痛感した。銀行は未知を恐れるがゆえに、数十億ドルもの利益をみすみす逃した。マスクはのちのX.comとペイパルでの取り組みで、このときの経験を根拠に、「銀行に勝てる」と信じて疑わなかった。「銀行がこんなにイノベーションが苦手なら、金融業界への参入企業が銀行につぶされるはずがない。銀行は新しいことは何もできないんだから」

(本原稿は、ジミー・ソニ著『創始者たち──イーロン・マスク、ピーター・ティールと世界一のリスクテイカーたちの薄氷の伝説』からの抜粋です)