2013年12月に刊行され、日本では無名だった「アドラー心理学」をわかりやすく解説した『嫌われる勇気』。刊行から10年を経て、いまや国内291万部のベスト&ロングセラーになりました。哲人と青年の対話形式で、衝撃的とも言えるアドラーの教えを紹介した同書は、老若男女あらゆる層の読者に影響を与え続けています。なかでも特に反響が大きいのが10代~20代の若い読者の皆さんです。
そうしたなか、『嫌われる勇気』を読んだ東京都立成瀬高等学校の図書委員会の生徒の方々から、著者である岸見一郎氏にインタビューの依頼がありました。岸見氏も快諾され、まさに哲人と青年たちのリアル対話が実現したのです。その白熱のやり取りを3回に分けてお届けします。第2回は死をめぐる思考から、ほめることの意味や勉強をする理由などについて。
(東京都立成瀬高等学校の図書委員会報「木馬」No.110掲載「作家訪問」より)

『嫌われる勇気』の著者・岸見一郎と高校生がアドラー心理学をめぐって白熱の対話。Photo: Adobe Stock(写真はイメージです。本文とは関係ありません)

「死」について若い人に伝えたいこと

生徒F(2年) 次の質問なのですが、先生は「死」というものをどのように受け止めていらっしゃいますか?

岸見一郎(以下、岸見) 「死」がどういうものであるか、ということは誰もわかりません。死んでこの世に戻ってきた人は、誰もいないからです。

 一度死んで、生まれ変わってきたという人がいます。でも、あれは、「臨死」、死に近づいただけです。ですから、死んだらどうなるか、ということを知らない。しかし、知らないからといって探求しないわけにいかない。

 私が小学校の2年か3年生ぐらいだった時に、「死ぬ」ということに囚われて、それは非常に「怖い」気がしました。普段思っていることが、すべて無になってしまうのならば、生きていることにそもそも意味があるのだろうか、と考えた時に、小学生だった私は食事ができなくなった。しかし、周りの大人は、死ぬことを知らないかのようにへらへら笑って生きているように見え、それが許せなかった。

 これが、「死」とは何かということを考え始めたきっかけになりました。それ以来、「死」については、ずっと考えています。ただ、端的に言えば、答えはまだ見つかっていません。古来、哲学者たちは「死とは何か」という問いを探求してきました。が、おそらく、誰も答えは出せていない。出せていないですが、二つのことが言えます。

 一つは、知らないことを恐れる必要はない。知らないことであることを、怖いことであると決めつけるのはおかしい。二つ目は、「死」がどういうものであれ、今の我々が生きる態度を変えてはいけないと思う。たとえ無に帰して何も感じられなくなるとしても、自暴自棄に生きていい理由にはならないでしょう。「死」が何であるかということにかかわらず、誠心誠意、生きていきたい。そのように考えています。

 二点と言いましたが、敢えて三点目を加えるならば、「死」は「別れ」であるということ。皆さんは若いので、まだそういう経験をしている方は少ないかもしれませんが、親とやがて死別しないといけない日が来ます。その時に、「死」がどういうものであるかにかかわらず、「別れ」である以上、非常に悲しいものであることには間違いない。その日のために、何ができるかということを考えておかないといけない。何ができるのか、ということについて端的に言えば、一つあります。それは、先のことを考えるのではなくて、今この瞬間のことを大事にする、ということです。朝、出かける時に、親と喧嘩別れしてはいけないということです。それが最後になるかも知れないから。何が起こるかわからない。そのように「死」が必ず我々に訪れる、という現実を考えた時に、果たしてその人と今、喧嘩をしていていいのかということを、立ち止まって考えてください。私が「死」について考えているのは、そんなことです。

生徒F(2年) 大変興味深い話を、ありがとうございました。

生徒A(3年) ネットに、趣味が「写真撮影」だと書かれていたのですが、どういったものを撮影していらっしゃいますか?

『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎。ギリシア哲学とアドラー心理学の研究者。岸見一郎(きしみ・いちろう)
哲学者
1956年京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門の哲学と並行して、1989年からアドラー心理学を研究。アドラー心理学の新しい古典となった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』執筆後は、国内外で多くの“青年”に対して精力的に講演・カウンセリング活動を行う。訳書にアドラーの『人生の意味の心理学』『個人心理学講義』、著書に『アドラー心理学入門』『幸福の哲学』などがある。

岸見 鳥、花、蝶々。自然の写真が好きです。今住んでいるところも割合、自然が残っているところですが、前に住んでいたところは本当に田舎で……。写真撮影に、非常に恵まれたところでした。ですから、季節の変化に応じていろいろな鳥がやってきたり、花が咲いたりします。そういう自然にあるものを撮影してきました。最近は、少し撮影するものが変わってきまして、実は二歳と五歳の孫がいます。この孫たちの写真を、一生懸命撮っています。人物写真も得意なのですが、SNSなどにアップするわけにはいかないので載せていません。

生徒A(3年) 写真を撮影することは、「癒し」を目的にしているのですか? どういったことを目的として写真を撮影していますか?

岸見 この人生は、過ぎていくものです。同じものとしてとどまるものは何一つない。だから、何らかの形で、記憶にとどめておきたいというのが、一番の思いです。自分の孫の話をしましたが、皆さんも日々成長しています。それは非常に嬉しいことですが、ある日あるところでこんな表情していたということを、なんらかの形で、記録に残したい。それはもちろん、例えばエッセイにまとめるとか、文章にしてまとめることでもできます。写真は非常に鮮やかに、過去の記憶を蘇らせます。そういう意味で、あまり「癒し」を目的に写真を撮っていると考えたことはありませんが、「記録する」ということでは、写真は非常に意味のあることだと考えています。

「ほめてはいけない」というアドラー心理学の考え方

生徒A(3年) ありがとうございます。もう一つ質問なのですが、岸見先生の著書で「ほめるということは、人を下に見ている」という言葉を読みました。このような見方や考え方というのは、どういったところから来ているんでしょうか? 哲学を学んでいくと、そういったことが見つかっていくのですか?

岸見 きっかけの話をしますと、高校生の時に、三年間柔道を学んでいました。体育の授業の時間の他に、週一回柔道の時間がありました。この柔道の先生は、八段でした。一方、私は背が低く、並ばされるといつも一番前に立たされました。

 一番小さいので、先生が新しい技を教える時に、必ず私を前に引っ張り出して、その技を皆に教えるために、私に技をかけるのです。その時に、あらかじめ打ち合わせをしました。例えば、「大外刈りという技をかけるから、君はこのようにして、返し技をしなさい」というように。それを他の生徒は知らないですが、私は知っているのです。先生が大外刈りをかけると、私は返し技をして、その先生は大きな先生だったのですが、倒れられるのです。その時に、「すごい」というような言い方をされたのです。が、私は技を決めることが嬉しいというよりも、馬鹿にされたように感じました。本当に、先生に返し技をかけて、倒れられたならいいですけれど、明らかにやらせだからです。しかも、少しもうまく技をかけられたわけでもないのに、「すごい」とか「よかった」というようなことを言われた時に、自分が対等の人間として見られていない思いが強かったです。それが、「ほめる」ということが人を下に見ているということになっている、と気づいた大きなきっかけの一つです。

 その後、アドラー心理学を学ぶと、「人間は対等である」ということが書いてある。その時、なぜあの時に違和感を持ったのかというと、「自分が対等に見られていなかった」からだということに気がつきました。逆に、最初の方の質問で少し触れましたが、倫理社会の先生は対等に見てくださいました。まるで高校生であるということを全く知らないかのように。例えば教科書に太い文字で重要な言葉が出てきますね。それを、英語とドイツ語とフランス語とギリシア語とラテン語で、黒板に書かれるのです。それを見て、対等に見られていると思いました。

生徒A(3年) ありがとうございました。

生徒G(3年) 岸見先生が哲学や心理学の勉強を始めてから、一度も変わっていない考えはありますか?

岸見 「この世界には、絶対的な真理がある」という考えは、基本的に変わっていません。

 今の人だけではありませんが、相対主義の人が多いですね。相対主義というのは、真理というものは唯一絶対のものがあるのではなく、人によって考え方や感じ方が違うのだ、という考え方です。

 ただ、我々は絶対的な真理を知らないだけであって、絶対的な真理というものがあるのだ、という考え方は昔から変わっていません。学び方が足りないので真理に到達することがなかなかできないけれども、「絶対の真理がない」と考えるのと、「絶対の真理はある、探求していかなければならない」と考えるのでは、大きな違いがあると考えています。それが、哲学を研究し始めた頃から一度も変わっていない考え方です。

生徒G(3年) とても興味深かったです。ありがとうございます。

生徒H(3年) これが最後の質問です。高校生に「これは伝えたい」ということがありましたら教えてください。

岸見 これは高校生によく話をすることなのですが、「自分のことしか考えないエリートは有害以外の何ものでもない」ということです。皆さんがどうなのかはわかりませんが、自分のことしか考えない人は多いです。有名な大学を卒業しているにもかかわらず、自分にしか関心がない。そういう人たちが私利私欲に走ってしまう。そういう人たちが政治家になったりしてはいけないと思います。

 ですから、皆さんが、能力があって勉強ができるのであれば、その能力を他者に貢献するためにぜひ使ってほしいのです。自分のためだけに勉強する人は、苦しくなったらやめてしまいます。でも、我々は決して自分のためだけに勉強しているわけではありません。勉強をすることで社会に貢献してほしい。私は本を書いていますが、簡単に本を書けません。本当に毎日毎日つらい日々を過ごします。ただ、自分のためだけに書いているのではないと思っているから乗り越えることができる。だから、受験勉強のためだけに勉強をするのではなくて、勉強することは周りの人に貢献するためであると強く意識してほしいです。

生徒H(3年) ありがとうございます。

(「哲人と高校生の対話(2)」終わり)