1年間、家もオフィスも持たない生活実験型プロジェクト「ノマド・トーキョー」を行った米田智彦さん。東京中のシェアハウスやシェアオフィスを渡り歩くうちに、今、同時多発的に生まれている、自己流に働き方や生き方をアレンジする「ライフデザイナー」たちと出会うようになった。特殊な才能の持ち主でも、社会的成功者でもない、彼らの等身大のライフデザインとはどのようなものか?

都市を旅して暮らす生活実験
「ノマド・トーキョー」

 近年、新しい働き方や暮らし方が注目を集めています。それにともない、ノマド、シェア、コワーキング、フリーエージェント、デュアルライフといった、さまざまな新しい言葉が世に出てきています。

 約20年も続く経済の停滞、日本企業の凋落……そこに起きた東日本大震災と福島原発の事故。日本社会が大きな時代の転換期にあることは誰もがご存知だと思います。「これまでのようにはいかない」──誰もがそう強く感じ、20世紀のスタンダードとは違った多様性に富んだ自由や幸福の形が求められています。

 その実践に対する答えは一概には語れませんが、少なくとも言えるのは、働き方や暮らし方のスタイルを変えるだけではなく、戦後70年近く常識や慣例とされてきた生き方を根本からとらえ直す必要があるということです。

 現在、僕はフリーランスの編集者・ディレクターとして、出版からウェブサイト、イベントまで幅広い分野で企画や編集、執筆などの仕事をしています。そして、2011年に約一年間、「ノマド・トーキョー」と名づけた「生活実験」を行いました。

 これは家もオフィスも持たず、トランク一つで東京を遊動し、都市の機能をシェアしながら「旅するように暮らす」を目的とした生活実験型プロジェクトです。「ノマド」という言葉は賛否両論もあって近年特に話題になっていますが、本来は「遊牧民」を指します。

 一般的には場所に縛られずに働く「ノマドワーキング」の意味で使われていますが、僕はもともとフリーランスで働いていた身だったので、ノマド・トーキョーを始める随分前から特定の職場を持たず、ノートパソコンと携帯だけを持ち歩いて、気づいたら、いろいろな会社のオフィスやカフェで仕事をするノマドワーカーになっていました。

 しかし、ノマド・トーキョーは本来の「遊牧民」の意味に近い、定住所を持たない「ノマドライフ」です。働くスタイルだけでなく、住む家も家財も捨てられるものはすべて捨て、東京をまるごとシェアして旅するように暮らす。しかも、これまで通り仕事もちゃんと続けるというルールを課して、生活そのものの変化を実験してみました。

 毎日のように東京という巨大な都市をアリのように移動しながら、昼間は編集者・ディレクターとして、これまで通りカフェや取引先の会社で原稿の執筆や企画書の作成、打ち合わせを行い、夜は友人知人やソーシャルメディアで知り合った人々の家やゲストハウス、ホテルなどに泊まりました。

 学生時代、僕はいわゆるバックパッカーとしてアジアやヨーロッパを貧乏旅行した経験がありました。でも、わざわざ飛行機に乗って海外に出かけ、秘境を訪れたり、世界一周なんてしなくても、ほんのちょっと日常の視点を変えるだけで自分の生活をまるで旅のように違ったものにできるのではないか?

 そして、人生を変えるようなヒントというのは、遠くの誰かが与えてくれたり、ここではないどこか遠くにあるのではなく、自分の身近な足元に転がっているのではないか?そんなことを、ある日ふと思ったのです。

 ノマド・トーキョーを始めるきっかけについては、新刊『僕らの時代のライフデザイン』の中で詳しく書いていますが、この経験が僕の人生に新しい風を吹かせ、ルーティンな生活の中に埋没し、次第に新鮮さを失いかけていた東京という街に対するイメージをがらりと変えていきました。思い切って「所有」という固定観念を捨てたことで、それまで当たり前だと思っていた働き方や暮らし方に対する考え方が大きく変わっていったのです。

 さらに、移動型の生活を続ける中で、今まで知らなかっただけで、僕と同じように生活そのものを自分流に実験台にしたり、大胆にアレンジしている人々が同時多発的にいるということを知るようになりました。

 彼らは決して特殊な才能の持ち主でも、飛び抜けた出自を持っているわけでも、社会的な成功者でもありません。自分の身の丈に合ったサイズで生活にちょっとだけ「工夫」を施し、与えられた条件のもと、考えうる可能性の中から、自らの意志で自らの人生を「選択」していました。

 彼らは、僕から見ると、困難な状況にあっても、飄々としなやかに生きる「ライフデザイナー」とも呼ぶべき人たちです。バラエティに富んだ働き方や暮らし方を実践する彼らをひとくくりにしてしまうのは多少強引ではありますが、ここではあえてライフデザイナーと呼ぼうと思います。彼らは決してマスメディアには大々的に報じられたりはしませんが、僕の目には、日常に静かな革命を起こしているように映るのです。