松井 ただ、無印良品というブランド自体は最初の数年間で確立できたものの、今までにまったくなかった新しい業態だけに、その後も数々の困難が待ち受けていましたね。

 たとえば、百貨店やスーパーという従来の小売業では、商品納入の約3ヵ月前に問屋と交渉して、品揃えを決めていきます。しかも、売れ残った場合の返品もできますから、売れなくてもそのリスクは問屋が負ううえ、決済も手形で済ませられます。ところが、我々の場合はメーカーと直接取引になるので、企画は販売時期から遡って1年前から始める必要がありますし、決済も現金が大前提でした。今では明確なビジネスモデルが確立されていますが、当時は何もわからない手探りの状況で、試行錯誤を何度も繰り返していくことになりました。

桜井 西友で3ヵ月のサイクルで商品を仕入れていた人が、1年前から売れ残りのリスクも抱える商品企画を進めるというのは、相当なストレスを抱えそうですね。

松井 西友の一事業部だったころから、問屋から通常のように商品を仕入れる「商品部」ではなく、「商品企画部」を別に設置して、メーカーとの取引を始めてはいましたが、独立してしばらくはビジネスの仕組みづくりに注力しましたね。

「獺祭」の開発コンセプトで参考にした<br />無印良品というブランド構築の舞台裏

 同時に、PB商品の場合、メーカーに納得していい商品をつくってもらうには相応の販売量が前提になるため、西武百貨店や西友内だけでなく売り場を増やす必要が出てきました。そこで、フランチャイズ方式で地域の有力企業と手を組み、商品を卸すことで無印良品の販売網を拡大していったのです。青山の1号店がわずか30坪だったのに対し、新たな店舗は60坪、120坪、300坪…といった具合に規模を拡大させ、取り扱うアイテム数も100から300、300から500、500から1000といったペースで拡充する戦略を打ち出しました。そうやって、無印良品の世界を拡げていったのです。

桜井 紆余曲折はあったにせよ、こうして今までになかったビジネスの仕組みの第1段階が構築されていったわけですね。

墜ちてみて初めて気づいた
慢心やおごり、焦りという危機の芽

松井 そうですね。先程もお話ししたとおり、最初の10年間で、売上高は245億円から1000億円に、経常利益は1億円から130億円に、業績は右肩上がりで成長してきました。

 しかし、そうなると人間は慢心してしまうわけですね。時代を相当先取りしたブランドとして登場したものの、マーケットの変化に追いつけずに、アッという間に商品開発の手法が陳腐化していた−−−−。本当は危機の芽はあったのでしょうが、急成長のなかを必死で駆け抜けている間は見えませんでした。2000年に初めて減益を経験し、墜ちてみてから初めて、慢心やおごり、焦りといった不振の原因に気がついたのです。