父の急逝で急遽、酒蔵の三代目を継ぐことになった、旭酒造の桜井博志社長。日本酒市場の縮小に先駆けて、業績が悪化していくなか、「もし自分が自殺すれば…」と死亡保険金を借金返済のあてにしてしまうほど追いつめられていきます。最初に打った手とはどのようなものだったのでしょうか。
テレビ東京系列『カンブリア宮殿』1/16(木)出演予定です!

「この子たちが大学を出るまで、うちの酒蔵はもつだろうか…」

 約30年前、9才と7才だったふたりの子どもの寝顔をみては、将来が恐ろしく、眠れない日が来る日も来る日も続きました。

 1984(昭和59)年4月、急逝した父の跡を継いで、私が家業である旭酒造の三代目社長に就いたころのことです。旭酒造は、山口県周東町(現岩国市)獺越(おそごえ)という山奥で、江戸時代にあたる1770(明和7)年の昔から酒造りを続けてきた小さな酒蔵で、私が今も社長を務めています。

 実は、私は社長就任の直前まで、勘当状態でした。
 ある日突然、勘当息子が三代目にーー。自分も含めて、誰もが想像だにしなかった出来事です。

 長男として生まれた私は、大学卒業後に希望して大手である西宮酒造(現日本盛)で修業し、いったんは1976(昭和51)年に旭酒造に入社したのです。しかし、酒造りの方向性や経営をめぐって父とは意見が合わず、ついにはクビになりました。
 その後、私は79(昭和54)年に櫻井商事という石材卸業の会社を興して、そちらに集中していました。年商2億円を稼ぐまでに育てたところで、父が亡くなったため、取るものも取りあえず酒造りに戻ったのでした。

 もともと好きだった酒蔵を継ぐことに、特別の感慨があったことは確かです。
 しかし、そんな感傷も吹き飛ぶような、惨憺たる現実が待ち受けていました。

 当時の清酒業界には、第1次焼酎ブームという逆風が吹き荒れていました。
 酒好きの方はご存じかもしれませんが、日本酒は1升瓶100本で1石と計算します。日本酒業界自体が、第1次オイルショックの年の最高980万石をピークに、現在は340万石まで縮小しています。
 業界がそうして縮小の一途をたどった間に、旭酒造の業績はそれを上回るスピードで悪化していました。最盛期だった1973(昭和48)年の約2000石から、私が引き継いだ当時は3分の1の700石まで落ち込んで、年商は前年比85%という厳しい状態。所轄の税務署の担当官や、知り合いの会計士から、「あがけばあがくほど沈む泥沼」「ロング倒産状態」と揶揄される有り様でした。