コンサル不毛の地・日本の
HY戦争で上げた大きな戦果
並木 日本に目を転じると、やはりBCGが他のファームに先駆けて東京オフィスを開設しています。それが1966年のことで、マッキンゼーが日本に進出するのはその5年後の1971年。堀さんがBCGに入られた頃(1981年)は、コンサルティングに対する日本社会の認識はどのようなものだったのでしょうか。
堀 第一に、コンサルティングという言葉がまだ全くと言っていいほど知られていませんでした。会社の名前はBCGだと言うと、「なんだ、ツベルクリン反応の会社か」と言われましたし、マッキンゼーもハンバーガーのマクドナルドのことだと多くの人が思っているような有様。冗談みたいだけど、本当の話なんですよ。
(フィールドマネジメント代表取締役)
当時のクライアントの約7割は欧米の企業で、日本市場への進出を手伝う仕事が多かった。彼らは「非関税障壁」と言っていましたが、日本はとにかく流通形態が複雑すぎてどうやって参入すればいいのか見当がつかない、何とかしてくれ、と。
ホワイトハウスからもよく注文を受けました。今度の日米自動車会議で交渉が有利に運ぶような論理を練ってくれないか、といったような仕事です。当時の私たちは、日本人の敵でしたね(笑)。
並木 日本の企業からは、どんな対応を受けていましたか?
堀 「堀さん、外国の会社にコンサルティングを頼まなくちゃいけないほど、我が社は頭の悪いやつらばかりじゃありませんよ」ということはよく言われました。欧米では「日本はコンサルティング不毛の地」だと思われていて、撤退したファームも少なくない。
それでも革新的な企業はいくつかあって、そういう会社がコンサルタントを使ってくれました。その一つがホンダです。BCGに入ったばかりの頃のホンダの仕事で、私のコンサルタント人生を決めたと言っても過言ではないほどの強烈な体験をすることになりました。
ホンダは、オートバイ市場でヤマハ発動機の猛追を受けていて、ついに神奈川県のシェアでヤマハにわずかながら抜かれるという事態が起こった。これが当時の河島(喜好)社長の逆鱗に触れて、私と取締役(当時)の入交昭一郎さんが呼び出され、次の3つのことを厳命されたんです。一つ目が「ヤマハを赤字会社に転落させろ」。二つ目が「子会社を最低1社、倒産させろ」。そして三つ目が「向こう10年間、間違ってもホンダの尻尾を踏みに来るようなことがないくらいに、相手の気持ちを萎えさせろ」。
並木 かの有名なHY戦争ですね。それにしても凄まじい「お題」です……。
堀 コンサルタントとしては面白い仕事だと思ったけれども、そんなことをしたらマーケットが荒れてしまって今後10年はオートバイで儲からなくなりますよ、と私は進言しました。それでも河島社長は、オートバイはホンダ全体の売上の2割しかないんだから別に儲からなくてもいい、ホンダに勝とうなんて考えること自体がけしからんのだと言って、とにかくやるしかなかった。
それからはもう無茶苦茶ですよ。吉沢(幸一郎)専務がスーパーカブを「イチキュッパで売る」と言うから、5万円くらいのものを1万9800円で売るなんて思い切ったことをするなあと思っていたら、1980円で売るつもりだったとか。3ヵ月で新車を50車種出せと言われたりとか……。
だけど、とにもかくにもやった結果、ヤマハ発動機は赤字になり、倒産した上場子会社も出た。当分は尻尾も踏みに来られないような状況を作ることができたんです。目標を達成したことで、ホンダの中では「BCGの堀ってやつはデキるらしいぞ」と噂されるぐらい、高く評価してもらえるようになりました。
並木 それが80年代前半の、日本のコンサルティングの現実だったわけですね。