「花といえば梅」から「桜」に変えた嵯峨天皇。
予算1000億円の花見を催した豊臣秀吉
日本では古来、花といえば「梅」でした(*1)。梅を珍重した中国に倣い、「花見」も梅の花を愛でる宴でした。それを「桜」に変えたのが、平安時代初期の嵯峨天皇(在位809~842年)でした。
桜に心を奪われた嵯峨天皇は、812年、初めて「桜」の花見を公式に催しました。日本の独自文化(国風文化)の始まりの一つです。
桜は日本を代表する花(*2)となり、平安末期の西行法師が「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」と歌うまでになりました。もちろん、ここでの花は桜のこと。「桜の下で死ぬ」ことを願った彼は実際、3月31日頃に亡くなりました。
桜の花見は、晩年の豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」で頂点を迎えます。(第32講『 非日常からの発想~大お花見パーティで磨かれる「おもてなしの心」と「自律性」』参照)ホストである秀吉は、醍醐寺の諸堂を再建・建築し、三宝院庭園を造営し、近畿4ヵ国から集めた桜の銘木700本を境内に植えて、場を整えました。現在価値にして1000億円をかけた大宴会です。
人々により愛されるサクラを目指して、日本の植木・造園職人たちは、新しい品種の開発に力を入れ続けました。今日はその栄枯盛衰の物語です。
日本のサクラは2度、死に絶えかけました。そして今、3度目の危機が。
多様化の後、ソメイヨシノ一色となった明治時代
サクラは突然変異体や交配種ができやすく、自然界だけでも数十種ものサクラが日本には存在します。原種としては、オオシマザクラにヤマザクラ、エドヒガン、カンヒザクラ、カスミザクラ、マメザクラなどが有名で「ヤマザクラ」と総称されます。
そして職人たちが丹精こめて品種改良に励んだ結果が、ソメイヨシノ、カンザクラ、コヒガン、オオカンザクラなどの園芸品種です。サトザクラと呼ばれます。
平安時代からの職人たちの努力の結果、江戸末期にはその数は250~300種に達しました。江戸時代、河川の整備に伴って護岸のために、土手にはサクラ(や柳)が植えられました。また、江戸中の武家屋敷や庭園が、色とりどりのサクラに彩られていました。
しかしその姿は、それから数十年で、大きく変わってしまいました。まずは大ヒット商品、ソメイヨシノの誕生です。
*1 奈良時代の『万葉集』において、梅の歌118首に対して桜の歌は3分の1の44首。
*2 10世紀初期の『古今和歌集』では、梅の歌18首に対して桜の歌は4倍の70首。