通算参拝数1万回の「日本の神さまと上手に暮らす法」の著者・尾道自由大学校長・中村真氏が「神さまのいるライフスタイル」を提案します! 日本の神さまを意識することで、心が整い、毎日が充実する。そして、神社巡りは本来のあなたに出会える素晴らしい旅だと伝えてくれます。
日本の神さまをあなたの生活に取り入れて、おだやかに輝く暮らしを手に入れてはみませんか。神棚や盛塩、見かけたことはあるけれど意味はよくわからない……そんな方は少なくないはず。いったいどういう目的で置かれているものなのでしょうか?

日本の生活に根付く
「神棚」よりも大切なものとは

あなたの部屋に<br />「神さまの居場所」をつくろう

 神社や神さまを考えると、さまざまなアイテムが登場しませんか。例えば、お守りや神棚。
 宗教家や学者であれば、それぞれについて語る言葉をもっているでしょうし、スマホで検索しても、それらが何を意味するものか、たちまちちゃんと答えが出てきます。

 そして僕はといえば、「すべてのアイテムはきっかけだ」ととらえています。

 なぜなら、交通安全のお守りが、事故から守ってくれるわけではないから。
 お守りは、そこに込められた昔ながらの祈りの心と、お守りをきっかけに芽生える「事故を起こさないようにしよう」というその人の心があって、初めて効果を発揮します。
 破魔矢を正しい方角に祀れば、どんな悪運も撃退できるわけでもありません。
 破魔矢に込められた昔からの願いと、破魔矢をきっかけとして生まれる「今年一年、つつがなく過ごそう」というその人の小さな決意が、すこやかな一年につながります。
 神棚があるから大丈夫だということもありません。お店でも家庭でも、「神棚を置く」という気持ちがまず大事だと、僕は思うのです。

 神棚とは、街中にたくさんある、小さなお社の室内バージョン。
 小さなお社とは街中で神さまが立ち寄る場所であり、神棚は自分の家の中にある、神さまに宿っていただく場所。神棚を置くとは、“神さまと交信する場所”を家に設置することだと考えていいでしょう。

 僕がおすすめしているのは、家のなかに自分なりの“神さまの居場所”をつくること。神さまが心地よく過ごせそうな場所であり、「神さまと仲良くして、きよらかにしあわせに暮らします」という自分にとっての誓いの場所。
 家のなかで、ふとそこに目をやれば、気持ちがぴんとする場所です。
 よく見かける、白木でつくった“ザ・神棚”でなくてもよい。自分の好みと部屋のインテリアに合う、手作りコーナーでかまわないのではないでしょうか。

【神さまの居場所づくりのポイント】

(1)南向きのいちばんいい場所
 まずは自分の中で「この家のいちばんいい場所」と感じる場所を決めます。僕の場合は部屋全体を見渡せるような、すこし高い場所の棚にしています。
 方位の先生もたくさんいますし、あなた自身に方位の知識があれば、それに従えばいいでしょう。一般に東か南がよいとされますが、好きな方位でかまいません。「そう言われても心配だ」という大多数の方は、南向きに。なぜなら神社の多くは南を向いています。おそらく太陽を向くということで、僕もそれにならっています。

(2)お札を中央にお祀りする
 神社でいただくお札は、神さまそのもの。行きつけの神社、お気に入りの神社でお札をもらってきてお祀りしましょう。僕は、思いを寄せている神社でいただいたお札を真ん中にお祀りしています。

(3)榊、米粒、水をお供えする
コップ一杯の水と、米粒を入れた小さな器、榊の枝。この三つが、僕が神さまへお供えしているものです。一般にお供えは水、米、酒、塩とされていますが、「決まりごとは人がつくったもので、神さまじゃないよな」と感じるので、自分にできる範囲ですませています。大切なのは、神さまと仲良くしようという心だと思っているのです。

 僕なりの“神さまの居場所”づくりの基本はこの三つですが、アレンジとして、お札のかたわらに横笛を置いています。笛は僕の趣味でもあり、神社にお参りしたときにはいつでも“献笛”をします。つまり、神さまに献上する音楽〈神楽〉を奏でる笛ですから、自分にとっては神聖なもの。毎日必ず練習するので、ちょっと神さまにご挨拶する習慣ができて一石二鳥といえるでしょう。
 お札のかたわらに財布を置く人、アクセサリーを置く人、いろいろでいいと思います。

 僕は毎朝、目覚めて身づくろいをととのえたら、“神さまの居場所”のお水を替えて、をあげます。「神さまにご挨拶」という感覚なので、別に祝詞じゃなくていい。「お早うございます。今日も一日よろしくお願いします」でもいいでしょう。

◆今回の気付き 
部屋に「神さまの居場所」をつくる

お店でよく見かける
「盛り塩」はエネルギーチャージ

 和食屋さんの入口など、三角にとがった〈盛り塩〉を目にすることがよくあります。
 魔除け、身を清める、縁起もの、風習。いわれはいろいろありますが、神棚にも塩をお供えする人がたくさんいます。スピリチュアルなことに関心が高い人たちも、「部屋に塩を」ということは多いようです。

 この盛り塩には、どんな意味があるのでしょう?

塩は「身を清める」というより、「穢れを祓う」役割を果たすものだと僕は認識しています。
「穢れ」という言葉は「気が枯れる」から来ているそうで、元気がなくなった、生命力が衰えている、というのが本来の意味
 そして塩とは、多くの生物にとって生命を維持するために必須のもの。

つまり〈盛り塩〉とは、「生命力が衰えた『穢れ』という状態に、塩でエネルギーチャージする」ということだったのではないでしょうか。それが時代を経るうちに、さまざまな解釈、違う理解になっていった気がします。

 みなさんも、お通夜やお葬式から帰ったあとに塩で身を清めたことがあるでしょう。
「穢れを清める」とは神道の考え方で、その起源は『古事記』にあります。ちなみに仏教では死は忌み嫌うものではなく、したがって穢れとも考えないようです。

『古事記』によれば、この世に天と地が生まれた時、〈高天原〉に何人かの神さまが誕生します。最後に生まれたのが〈伊邪那岐〉と〈伊邪那美〉の夫婦。
 二人はどろどろしたおぼろ豆腐のような国を固めて日本の国土をつくり、男女のまじわりをしてたくさんの神さまを生みます。ところが伊邪那美は、火の神の出産の際に大やけどを負って命を落とし、の国へ行ってしまうのです。

 黄泉の国は穢れの国で、体はやがて腐っていく。醜い姿を愛する人に見られたくないというのは、古代の神さまも現代の人間も変わらない女心でしょう。しかし「絶対に会いに来ないで!」と言われても、伊邪那岐は黄泉の国まで会いに行きます。女性に「見ちゃダメ」と言われると、ますます見たくなるという男心もまた、変わらないようです。
 伊邪那岐は黄泉の国で変わり果てた妻の姿を見ると、ショックを受けて逃げ出します。

イザナミを「いざなう身」と考えた場合、身は腐るものなので、「黄泉の国で腐敗した」と考えることもできます。
 イザナギを「いざなう気」と考えた場合、「愛する人を失って気が枯れ、穢れという状態になってしまった」と考えることもできます。

 いずれにしろ『古事記』によれば、黄泉の国から戻った伊邪那岐は、穢れた身を清めるために、〈筑紫日向橘小戸阿波岐原〉で〈禊〉をします。

 現在お葬式のあと塩を撒くのは、これと同じく死という穢れから身を清めるためですし、神社での正式参拝やご祈祷の際、最初におこなうのは、俗界の穢れを祓って神さまに会うための〈禊祓いの儀〉です。この時に奏上される〈禊祓いの儀〉という祝詞は、伊邪那岐の「禊祓い神話」がもとになっています。

 祓詞は祝詞の一種ですが、祝詞という言葉にも由来があります。もともと祝詞とは、「伝える」という意味。
 昔は神さまの祀りごとの際、神さまの言葉を聞いてみんなに伝える役割の人がいました。その人が「神がこうおっしゃっている」という意味で、「神がのりおる」と言ったらしく、それが「祝詞(伝える)」になったそう。

 今では逆に、神主さんや僕たちが神さまに対してお祝いや感謝の言葉を捧げることを祝詞と言っていますが、こちらは〈寿詞〉という別の言葉だったようです。祝詞と寿詞の使い分けは時代を経てなくなり、祝詞の意味も変わっていきました。
 言葉は生き物であり、時代によって、それを使う人によって、変わっていきます。何が正しく、何が本当かは、実は曖昧です。同じように神さまにまつわるルールも、時代によって、人によって、変わってきました
 それならば、神さまと仲良く暮らす“やり方”は、あまりカチカチに考えなくてもいいのではないでしょうか。
「絶対に正しいものはない」くらいの感覚で、敬う心さえあれば、ある程度、自由さがあるほうが自然だと僕は思うのです。
 そんなこともあってわが家の“神さまの居場所”に塩は置いていませんし、意味はあまり追究しなくてもいいのかな、と思っています。

 次回は、日々の暮らしの中で神さまの存在を感じる瞬間についてお話ししていきます。

◆今回の気付き 
大切なのは神さまと向き合う「気持ち」