通算参拝数1万回の「日本の神さまと上手に暮らす法」の著者・尾道自由大学校長・中村真氏が「神さまのいるライフスタイル」を提案します! 日本の神さまを意識することで、心が整い、毎日が充実する。そして、神社巡りは本来のあなたに出会える素晴らしい旅だと伝えてくれます。
今回はいよいよ神さまに会いに神社へ行くことについてお伝えします。お参りのマナーについて改めて考えてみましょう。

お参りとは、空を見上げること

 尾道自由大学での〈神社学〉の講義の際、「さあ、神社へ出かけてください。自由にどんどん、神社に行けばいいんですよ」と 生活に神社を取り入れよう、と言うと、「え~っ、でも」という反応が返ってくることがあります。

 神さまや神社に関心はある。しかし「自由に“行きつけの神社”をつくればいいといっても、どうお参りしたらいいか知っておきたい」というのが大多数の意見。観光で神社やパワースポットを訪れ、より深く知りたくなった人もいます。

 そこでこちらでは、僕なりに整理したお参りのマナーを紹介します。

 失礼がないよう配慮してはいますが、正式な神道の作法よりもカジュアルな解釈です。「こんなふうにも考えられるね」という提案であり、「これが正しいから、こうしなさい」と言うつもりはありません。「興味があるところだけ、いいとこ取り」くらいの感覚でこの本を受け止めて、自分らしいお参りをしてほしいと思います。

「お参りとは、神さまに会いに行くことであり、自然とつながることだ」

 僕はそう考えており、神社とは小さな自然そのものであるとも感じています。
 たいていの神社にはしめ縄があり、その周辺には〈紙垂〉という、ギザギザした和紙が垂れています。中央に鈴があり、その奥に拝殿があります。

これはすべて自然の象徴。〈しめ縄〉は雲、〈鈴〉は雷鳴、〈紙垂〉は稲妻を表しています。

 昔むかし、日本人は自然を神さまに見立てていました。神さまは天にいて、ときどき怒ると雲がわっと上がってきて、激しい雷が落ちます。それをコンパクトに表現したのが、神社なのです。

「雷」という文字は最近のもので、昔は「この光と激しい音は神さまからのメッセージだ」という意味で「神鳴り」と書いていました。ロマンにあふれた昔の人のイマジネーションが伝わってきます。
 しめ縄という雲が自分たちと天を隔てており、それを見上げて鈴をゴロゴロと鳴らす。紙垂という稲妻を眺めながら、「神さまおいでください」と手を合わせる――お参りは、そんな行為。

大いなる空を見上げるようにお参りしましょう。

◆今回の気付き
神社で自然を感じる

お参りとは、神さまと約束すること

 これまで神社に行ったことがあるという人は、どんなきっかけで足を運んだのでしょう?

 お宮参り、七五三、結婚式やお葬式といった節目に。
 お祭りや初詣といったイベントで。
 観光をかねて、その土地で有名な神社へ。
 合格祈願、縁結び、「このプロジェクトを成功させたい」といった“お願いごと”で足を運んだ人もたくさんいると思います。

 いずれのきっかけにしろ、神社に行ってお参りするとなると、お賽銭を入れて、鈴を鳴らして、柏手を打ち、何かしら祈願するという人がほとんどだと思います。

 しかし、僕は神頼みをしないということの大切さをお伝えしたいと思います。
神さまにお願いするのではなく、神さまの前で誓いを立てるために神社に行く。僕は自分でそう決めており、人におすすめもしています。

 資格でも就活でも受験でも、どうしても合格したい試験があって、神社にお参りに行くとします。
「神さまお願いです、受からせてください」というのが神頼み。
「僕は絶対に受かりたいので、一生懸命やります。神さま、どうぞ見守ってください」というのが誓い

 この二つが求める結果は同じです。しかし、神頼みなのか誓いなのかによって、その人がどう行動するか、プロセスはまったく変わってくる。僕はそんな気がするのです。
「神さまに頼んできたから、もう大丈夫」なのか、「神さまに誓ったからには、本気で頑張らなきゃ」と思えるかで、行動が変わり、結果が変わると思っています。

「神頼み」はいわば他力本願で、神さまにすべて丸投げ、お任せしっぱなしです。
 いっぽう「誓い」であれば、自分も努力しなければなりません。

 まずは自力で精一杯やると誓い、「見守ってください」と神さまにお願いする。神さまと約束できるくらい、自分は本気だということです。誓いはまた、「くじけたり、なまけたり、手を抜いたりは決してしない」という約束にもなるでしょう。
 とはいえ、いくら努力しても人生にはアクシデントがつきものですし、自分ではどうにもならないこともたくさんあります。だから約束をしたうえで、「本番で地力を発揮できるように助けてください、努力のその先にある成功まで道案内をしてください」と、神さまにお願いする

 この一連の心のいとなみこそ“誓いのお参り”であり、お参りすることによって神さまの前で自分を見つめ直し、大きな約束をし、願いを叶えることができる。そんなふうに思うのです。

 日本人の道徳心やマナーの良さは、心のどこかに「神さまが見ている」という意識があるためだと僕は考えています。
「お天道さまが見ている」と昔から言いますが、もし間違ったことをしたら、たとえ誰にも見つからなくても、空や木々や一粒のお米の中にまでいる神さまには全部見られてしまう――僕たちには、そんな気持ちがどこかにあるのではないでしょうか。神さまに対して、嘘やごまかしは通用しないのです。

 そして、僕たちが嘘をつけない相手は、神さま以外にもう一人います。それは他ならぬ、自分自身。自分の心だけは、ごまかすことはできません。
 きれいな言葉を並べ、笑顔をつくれば、他の人はあざむけます。しかし、それが真実でないことは、自分が知っています。
 偽り、とりつくろい、大人の言い訳。それがときとして盾となり、外部の攻撃から身を守ってくれることはあるかもしれませんが、鎧の中のなまみの自分は、自分自身の毒で傷ついてしまいます。

 たとえば、「煙草をやめる」と心に決めたのに吸ってしまったとき、人に対しては、「最初から禁煙なんかするつもりはなかったよ」とごまかせます。罪のない小さな嘘ですし、喫煙のマナーさえ守れば、人から責められることもないでしょう。しかし、自分の心は痛み、ちょっとがっかりするはずです。「ああ、吸っちゃったな」と。
 さらに神さまの前で禁煙を誓うとなると、嘘をつけない相手が自分と神さまの二人に増えることになります。家にいて自分の心に決めたときより、神社でお参りして神さまに誓ったときのほうが、真剣さも変わってきます。禁煙という目標が達成できるかどうかという結果も、変わってくるのではないでしょうか。

お参りとは、自分の心と神さまに約束をすること。
 神さまを意識すると行動が変わるということ。
 神頼みをやめて、“誓いのお参り”をしてみましょう。

 次回は、多くの人が気になっている「厄年」について、僕の考え方をお伝えしていきます。

◆今回の気付き 
神社では「誓い」を立てる