2015年11月、困窮の末に生活保護を申請した高齢の夫妻と娘の一家3人が、申請から4日後に入水心中を試みた。なぜ、一家は保護開始を待てなかったのだろうか? 生き残った娘は、どのような判決を受けたのだろうか?
生活保護を申請した一家は
なぜ4日後に一家心中を決行したのか?
2016年7月10日の参院選は、改憲勢力の圧勝に終わった。私が最も気になるのは、日本国憲法第25条に定められた「健康で文化的な最低限度の生活」の今後だ。
何らかの理由によって実質的に「使えない」あるいは「使いにくい」社会保障・社会福祉は、人を殺す。あるいは人を傷つけ、部分的に殺す。これは「言葉のアヤ」ではなく、現在の日本で、現実に起こりつづけている出来事だ。
今回は、2015年11月に埼玉県で発生した一家心中未遂事件と、生き残った娘・Nさん(47)に対する裁判および判決を、生活保護ケースワーカー経験・社会福祉を専門とする大学教員経験を持つ寺久保光良氏のコメントとともに見てみよう。
2015年11月21日、Nさんは、認知症の母親(当時81歳)・頚椎圧迫から歩行が困難になっていた父親(当時74歳)とともに利根川で入水自殺を図った。両親は溺死したものの、Nさんは死にきれず生き延び、裁判の被告となった。産経新聞記事には、Nさんに父親が「一緒に死んでくれるか」と切り出し、入水したとき母親が「冷たいよ、死んじゃうよ」と抵抗したことなどが、生々しく紹介されている。
Nさんは、事件4日前の11月17日、居住地の市役所に生活保護を申請した。
74歳の父親は、バイクに乗って新聞を配達する仕事を続けていたが、入水自殺した2015年11月に退職。頚椎圧迫による運動障害で、バイクに乗れなくなったからだ。11月末には手術を受ける予定となっていたが、唯一の稼ぎ手を失った一家が父親の手術などの医療費を支払い、ついで今後の生活を維持するためには、何があればよいだろうか? もしも満額の老齢基礎年金があったとしても、生活保護を利用しないわけにはいかないだろう。そして、両親は無年金高齢者だった。
Nさん自身も、「働ける」と言える状態ではなかった。Nさんは高校中退後、就労していたりしていなかったり。記事には「仕事中に人の目が気になる」という記述がある。安定した就労を継続するにあたっての障壁が、何かあったのかもしれない。また2003年、母親が認知症など高齢に伴いやすい病気を患って以後、Nさんは献身的な介護を続けていた。3年前からは全く就労せず、母親の介護に専念していたという。
唯一の働き手であった父親が働けなくなった一家。介護・看病を必要とするのは両親の2人となり、担い手はNさん1人。一家が生き続けるためには、社会保障・社会福祉の利用しかないだろう。
もちろん、そんなことは本人たちが最もよく理解していたはずだ。Nさんは11月2日、父親が退職する前に市役所を訪れ、生活保護の申請について相談した。市役所職員の説明を受けたNさんは、その日のうちに母親の要介護認定の手続きをしたという。Nさんが実際に生活保護を申請したのは、約2週間後の11月17日だった。父親が一家心中について口にしたのは、翌18日のことだった。