【第4回】 2009年11月12日
将来のリスクばかり考えて「今」を楽しまないことの害悪
――安定志向が「ウツ」を引き起こす
私たちは、「将来に備えて……」「もしものために……」といったフレーズが日常的に飛び交う中で暮らしています。
これらは近年では「リスク・マネジメント」という美名をまとって流通しているわけですが、安定や安心を求める人間の性質は留まるところを知りません。現代の人間は、コントロールできないはずの「運命」までをもコントロールしたがっているかのようです。
しかし、このように将来への不安を回避しようと安定を志向するとき、人間は「今を生きる」ことから遠ざかってしまうという大きなジレンマを抱えてしまいます。
「今を生きる」ことが希薄になると、「心」(=「身体」)は喜びのエネルギーを得ることができず徐々にしぼんでしまって、最終的には動かなくなってしまうのです。案外見逃されやすいポイントですが、人が「うつ」に追い込まれていく背景には、程度の差はあれこの問題が含まれているものです。
今回は、このような安定や安全を志向する価値観に潜む問題点について考えてみたいと思います。
アリとキリギリスはどちらが幸せか
イソップ寓話の「蟻と甲虫(カブトムシ)」に由来する童話「アリとキリギリス」は、冬に備えて勤勉に働くアリとヴァイオリンを弾いて暮らすキリギリスが対比され、リスクに備えてコツコツ蓄えたアリが立派だったとする教訓で結ばれています。
このアリのような在り方を望ましいとする価値観は、特に勤勉さを美徳とする日本人には根強く信奉されてきたものです。
しかし、アリのストイックな勤勉さが賛美され音楽に興ずるキリギリスが愚かな存在として描かれているこの童話には、ある種の毒が盛り込まれていると見ることもできます。
イギリスの哲学者バートランド・ラッセルが、こんなことを述べています。
私が本当に腹からいいたいことは、仕事そのものは立派なことだという信念が、多くの害悪をこの世にもたらしているということと、幸福と繁栄に到る道は、組織的に仕事を減らしていくにあるということである。(~中略~)
だが相当のひまの時間がないと、人生のもっとも素晴らしいものと縁がなくなることが多い。多くの人々が、この素晴らしいものを奪われている理由は、ひまがないという以外に何もない。馬鹿げた禁欲主義、それはふつう犠牲的のものであるが、ただそれに動かされて、そう極端に働く必要のもうなくなった今日でも、過度に働く必要のあることを私たちは相かわらず主張し続けている。(堀秀彦・柿村峻訳『怠惰への讃歌』平凡社ライブラリーより)
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著者プロフィール
- 泉谷閑示
(精神科医)
1962年秋田県生まれ。東北大学医学部卒。東京医科歯科大学医学部付属病院医員、(財)神経研究所付属晴和病院医員、新宿サザンスクエアクリニック院長等を経て、現在、精神療法を専門とする泉谷クリニック院長。著書に『「普通がいい」という病』(講談社現代新書)と最新刊の『「私」を生きるための言葉』(研究社)がある。
「泉谷クリニック」ホームページ
この連載について
今日急増している「うつ」は、もはや特定の個人の問題と捉えるだけでは十分ではない。現代人が知らず知らずに翻弄されているものの正体は何か。前連載に引き続き、気鋭の精神科医が豊富な臨床経験をもとに読み解く。
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