「失われた20年」。バブル崩壊以降、低成長を続ける日本経済は、このようにネガティブに表現されることがほとんどだ。だが、あたかも既成事実のようにこの言葉が先行した結果、評価されるべき事実を見落としている可能性はないのだろうか。スイスのチューリッヒ大学で日本研究を専門とするステファニア・ロッタンティ博士とゲオルグ・ブリント博士は、この時期を日本の「失われなかった20年」と評して我々の意表を突く。本連載では、立命館大学の琴坂准教授との対話を通して、日本の常識を覆す新たな視座が提供される。連載は全4回。(翻訳協力/我妻佑美)
 

非正規雇用増加の背景には
ポジティブな理由がある

琴坂 さて、前回の対談では、バブル経済前の1988年と東日本大震災直前の2010年の雇用統計を比較すれば、非正規雇用の比率が増加したのは、非正規雇用の大幅な増加が原因であるといえる、という指摘がありました。絶対数に関しても、非正規ほどではないにせよ、正規雇用もむしろ増加していた、という視点が示されました。

ステファニア・ロッタンティ・フォン・マンダッハ
Stefania Lottanti von Mandach
チューリッヒ大学 東アジア研究所 研究員
1996年、日本に留学。2000年、チューリッヒ大学日本学科と経営学を卒業したのち、経営コンサルティング会社に就職し、主にスイスとイギリスで活動。2006年、プライベートエクイティ会社に転職して、日本および韓国市場を担当。2010年、博士号を取得。2011年より現職。最近の研究は、日本のプライベートエクイティ市場、労働市場と流通制度を対象。

 ただ、日本全体ではそう見えても、おそらく産業によって大きく差異があること、また業種によっては非正規雇用への移行がより顕著なため、正規雇用が非正規雇用に置き換えられている、というイメージが先行している可能性があることにも触れましたね。

 たしかに、1990年代のバブル経済とそれに付随する雇用拡大期から現在を比較すれば、正規雇用は減少しており、正規雇用から非正規への振り替え行動も確認できるはずです。しかし、異常とも言えるバブル経済の影響の小さな時期から比較すると、生産年齢人口が低下している期間にもかかわらず雇用が増加していると理解できることは、肯定的に捉えてもよさそうです。

 その指摘には納得する一方で、そのほかにも「失われた20年」に関して議論されている点はあるかと思います。たとえば、「世代間の格差」を指摘する声が多いのではないでしょうか。特に若者の非正規雇用の比率が増加しているという資料や、新卒者が正規雇用の職を得ることの難しさを指摘する調査報告はとても多いように感じています。近年では、国内の新卒採用よりも海外からの新卒採用を増やす方針を打ち出す企業も注目されています。

ブリント そうですね。そうした懸念については我々もよく耳にしますので、関連する雑誌新聞記事や調査レポートにも目を通しています。そして数字だけを見れば、まさにおっしゃる通り、15~24歳の若者における非正規雇用の割合が大きく増加しているのは事実です。しかし、我々はその増加は非常にポジティブな理由から生じているのではないかと考えています。

琴坂 若年層の非正規雇用割合が増加する背景にはよい理由がある、と。なぜ、若者世代の非正規雇用の増加という事実を肯定的に受け止めることができるのでしょうか。

ロッタンティ 非正規雇用の増加それ自体ではなく、その増加の背景をポジティブに捉えることができると考えています。まず、若者層の進学率を示した下図をご覧ください。この20年間で、大学に進学した人の割合は確実に増加しています。
 

 

ゲオルグ・ブリント
Georg D. Blind
チューリッヒ大学 東アジア研究所 研究員
スイスのザンクトガレン大学で経済学修士、フランスのHEC経営大学院で経営学修士を取得したのち、2004年、マッキンゼー・アンド・カンパニー入社。その後、2008年からの1年間、京都大学経営管理大学院で日本学術振興会の外国人特別研究員を務め、2010年より現職。2014年、ドイツのホーエンハイム大学で経済学博士号を取得。主な研究テーマは日本の起業活動、労働市場、経済学方法論。最近の論文に「Decades not lost, but won」(ステファニア・ロッタンティ・フォン・マンダッハと共著)がある。

ブリント 労働市場の観点からは、大学進学率の増加は通常良いニュースと捉えられます。人的資本の層が増加し、分厚くなるからです。とくに技術革新による経済成長が重要な日本のような国にとって、それは強く求められる要素でしょう。

琴坂 近年、大学進学率は頭打ちの傾向ですが、過去20年程の進学率は、ほぼ2倍に増加していますね。しかし、この事実が若者世代の非正規雇用の増加にどうポジティブに影響するのでしょうか。進学率上昇との関連性は考えられなくもないですが、直観的にはネガティブな事実のようにも思えます。逆に、いまや多くの若者が大学の学位を取得しているのに、非正規雇用しか働き口が見つからない状況はどういうことか、という声も出てくるのでは。

ブリント 我々が注目したのは、在学中のアルバイトです。学生である以上は、当然、パートタイムのアルバイトしかできませんよね。15~24歳の年齢層における非正規雇用の割合が大きく増加しているのは、このためではないかと考えています。

琴坂 つまり、過去20年程度でより多くの若者が高等教育に進むようになり、大学進学率も伸びたことが若年層の非正規雇用の比率の増加につながったのではないかと。たしかに18歳から22歳前後の若年層の多くが大学に進学し、その大半がアルバイトで生活費を補っていると考えると、その可能性は大いにありそうですね。しかし、他の要因も働いているとは考えられませんか。

ロッタンティ この推測だけで本当に非正規雇用の割合の増加をすべて説明できるのか、当初、我々も懐疑的でした。しかし、よく考えてみれば、学生アルバイトが1人増加することは、単に非正社員が1名増加したことを意味するのではありません。これは同時に、正社員のポテンシャルを持つ者が1名減少しているともいえるのです。そういった意味では、非正規雇用の割合に二重の影響があると言えます。従って大学進学率増加の影響はかなり大きいと考えています。