1942年(昭和17年)、松方弘樹は現在の東京・赤羽台の高級住宅地で生まれます。太平洋戦争が始まった翌年の夏でした。父親は時代劇の剣戟スターとして知られた近衛十四郎で母親は女優の水川八重子ですから、“芸能人2世”ということになります。両親は、仕事をしていた映画会社が倒産したことで、大衆演劇の近衛十四郎一座を結成することになり、座長が兵隊に召集されてからは水川八重子一座として全国を回ります。要はドサ回りです。松方弘樹は、やくざが隣にいる興業という世界にどっぷり浸かって、大人たちからボン(坊ちゃん)として可愛がられながら育てられたのです。

 57年になって近衛十四郎一家は京都に引っ越しますが、16歳の松方弘樹だけが東京に戻ります。父親のコネで著名な作曲家の内弟子にしてもらい、定時制高校に通いながら歌手になることを目指します。映画は、12歳で松竹の時代劇に端役で出たことはありますが、17歳の時に父親に連れられて東映の大川博社長を訪ねます。そこで、いきなり主演デビュー(「十七才の逆襲 暴力をぶっ潰せ」)が決まりました。

 近衛十四郎は大部屋俳優を経験していますが、松方弘樹は下積みを経験することなく、さらに俳優になりたい新人の登竜門であるオーディションを受けることもなく、最初から主役クラスで東映に入ったのです。これは、あまりにも恵まれていました。

――ところが、親の七光りで映画界入りした松方弘樹は、同じ作曲家の内弟子だった仲間(後の五木ひろし)の歌唱を聞くうちに、歌手になる夢を断念してしまいます。

 そこから東映京都撮影所に拠点を移して、本格的に役者を目指すのです。当時はまだ日本映画が元気だった時代でしたので、「一枚看板」を張れるだけの主役俳優になるには、プロフェッショナルとして習得しなければならない技術が多々ありました。

 主演デビュー作こそ現代劇でしたが、基本的に松方弘樹は時代劇で出発した役者ですから、メイク、着物の着付け、日本舞踊、乗馬、殺陣、立ち回りなどをきちんと習得しています。その上で、ワンカットずつ細かく切って撮影する昔のやり方で学んでいるために、ブツ切りの演技を撮影しているにもかかわらず、フィルムには自然な繋がりが出せるような演技をする能力を身に付けています。時代劇の映画俳優には、自らの想像力を発揮して、全体の流れを推測しながら演技することが求められました。

 60年代当時の松方弘樹の目標は、時代劇の大スターだった中村錦之介(後の萬屋錦之介)でしたから、必死になって自分の演技に取り入れました。東映の時代劇には、中村錦之介以外にもお手本にすべき役者が綺羅星のごとくいましたので、先輩たちからの影響が演技のバックボーンになっているのです。今日では、撮影のやり方自体が時代劇とは異なるために、役者にはそこまでの水準は要求されていません。