17歳の女子高生・児嶋アリサはアルバイトの帰り道、「哲学の道」で哲学者・ニーチェと出会います。
3日後、ニーチェは鴨川にアリサを連れ出し、水切りをしながら、こう語るのでした。
「アリサ安心しろ、その辛いことは、乗り越えても、乗り越えても、必ずまた繰り返されるから」
哲学のことを何も知らないアリサでしたが、その日をさかいに不思議なことが起こり始めます。
ニーチェ、キルケゴール、サルトル、ショーペンハウアー、ハイデガー、ヤスパースなど、哲学の偉人たちがぞくぞくと現代的風貌となって京都に現れ、アリサに、“哲学する“とは何か、を教えていく感動の哲学エンタメ小説『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』。今回は、先読み版の第10回めです。

「……!ちょっといきなり、何そのドS発言!」

 そう言われてみるとたしかに、明確な目標を持ったことは陸上の大会の時くらいだったかもしれない。目標に向かって全力で突き進むことの素晴らしさは知っているつもりだったが、叶えられなかった目標が自分の中でくすぶっているうちになんだか面倒くさくなってくるものだ。

 いまの私は毎日を楽しく生きたいけれど、なるべく苦労はしたくないというのが本音であった。

 それは、いつのまにか、楽に生きることが目的になっているのであって、より喜びを感じる生き方というのとは違うということは、私も薄々わかっていた。

「いまの話、なんとなくだけどわかったよ。私にも思い当たるし。
それで、ニーチェがさっき言っていた、エイコウ……なんとかっていうやつは、あれはなんだったの?」

「ああ、エイコウ、ではなく永劫回帰のことだな、聞く覚悟が出来たのだな」

 私は何も言わずに頷いた。

「永劫回帰は、さっきも言ったとおり、時間が無限にあるのならば、同じことが繰り返されるということだ」

「同じことが繰り返される?」

「そうだ。例えば、アリサには辛い過去や、辛い出来事はあるか?」

 辛い過去、その言葉を聞いて私は怪我をして陸上部をやめた冬の出来事を思い出した。私は高校入学と同時に高校の寮に入った。

 小さい頃から抱えていた漠然とした寂しさも走ることに夢中になっている間は忘れられたし、家に帰るよりも一人練習に打ちこんでいる方が、私は心がずいぶん楽だった。

 虐待を受けていたとか、両親を憎んでいたわけではないが、両親とは心の奥深くではわかり合えないだろうという諦めが根づいていたからだ。

 いまの高校に志願したのも、スポーツ推薦で入れる寮が完備されていたからであって、入学が決まった時に私はこれから起こる辛いことも自分一人で全部受け止めなきゃいけないと、覚悟を決めていた。

 悲しい気持ちは自分で清算しなくてはいけない。泣き言を言っても結局傷つくのは自分だからだ。

 母親はよく電話で「たまには実家に顔を見せなさい」と言ってくる。

 けれども、私はお正月とお盆以外は、実家に帰っていない。帰ってもいいのだけれど、「帰ったところでどうなるの?」という声が頭の片隅に浮かび上がってくるのだ。

 実家に顔を見せたところで、家族とわかり合えるわけではない。実家でくつろいだところで、また私は実家を出て一人の生活に戻ることになる。そう思うと、わざわざ片道三時間もかけて実家に帰るのが億劫になってくる。

 ため息まじりの切なさと共に、何十回も繰り返した諦めが心を埋め尽くす。

「うん、まああるといえばあるよ。そんな大げさなものでもないし、いまはわりと受け止めているけど」

「その辛い過去を、乗り越えた、ということか?」

「うん、まあいまは、だいぶ慣れたかな」

 私は強がりまじりにそう言ってみた。

 するとニーチェは右手を挙げて満面の笑みでこう言った。

「アリサ安心しろ、その辛いことは、乗り越えても、乗り越えても、必ずまた繰り返されるから」

 そう言うと、ニーチェは夕陽に染まった空を見上げ、高笑いをあげる。

 空にはニーチェの笑い声とカラスの鳴き声が響く。