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ニッポン 食の遺餐探訪

木桶仕込みの醤油、国内シェア1%から海外を目指す

樋口直哉 [小説家・料理人]
【第48回】 2016年11月2日
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ヤマロク醤油は小豆島で同業者からも一目置かれる醤油蔵だ

 醤油づくりが盛んな小豆島。狭い場所にこれほど多くの醤油蔵が密集している地域は全国的にも珍しい。

 なぜ、小豆島で醤油づくりが盛んになったのか。

 もともと小豆島では製塩業が盛んだった。やがて、農地が少なく米穀の自給自足は不可能という環境から、九州から移入した大豆や小麦を、塩で加工し売るようになる。そうした加工品が小豆島名産として知られる素麺や醤油、そして醤油を使った佃煮だ。

 また、かつて運送の主力が船だった時代、小豆島は海の道の要所。小豆島の醤油は大消費地である京都や大坂に運ばれ、江戸時代末期には広く知られるようになったという。また、雨が少ない小豆島の気候が醤油づくりに適していた、という理由もある。

 醤油は日本の食文化の根幹を支える食材。しかし、全国に1400軒ほどある醤油蔵のうちに原料から自前で仕込んでいる蔵は少なく、さらに昔ながらの木桶で仕込んでいる醤油蔵となるとさらに限られる。木桶でつくられた醤油は現在ではなんとわずか1%、その3分の1を小豆島が占めるというから驚きだ。

 ヤマロク醤油はそんな小豆島で同業者からも一目置かれる醤油蔵である。先月、紹介したヤマサン醤油の佐藤潤さんも「お客さんがいらしたら案内したいのはうちではなく康夫さんの蔵」と慕っている五代目の山本康夫氏からお話を伺った。

戦前は当たり前だった木桶の醤油
大量生産の波に呑まれ絶滅危惧種に

ヤマロク醤油、五代目山本康夫氏

 「うちはもともと諸味屋。ある意味、醤油屋の下請けだったんです。戦前、醤油屋は儲かってたんですよ。戦後、昭和二十五年にうちの祖父が「諸味を絞って醤油にしたほうが儲かるぞ」と気づいて醤油屋に転業しました。ですが、気づいたときには遅かった(笑)。戦後、醤油の値段が下がったので、儲かったのは数年だけと聞いてます。戦前、醤油1升瓶の値段は男性の散髪代と同じだったそうです。今の感覚で言えば3800円くらいですか。今だと1升500円~600円ですからね」

 戦後、食糧の安定供給が課題だった時代に醤油は大量生産の波に呑み込まれ、価格はどんどん下がっていった。1963年には「中小企業近代化促進法」が制定され、協業化が進む。多くの醤油蔵が生揚げ醤油((もろみが入った状態の生醤油))を仕入れ、火入れと瓶詰めをして売るという形に変わっていき、不効率な木桶も使われなくなっていった。

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樋口直哉 [小説家・料理人]

1981年生まれ。服部栄養専門学校卒。料理人として活動する傍ら、2005年、『さよならアメリカ』で群像新人文学賞を受賞し、小説家としてデビュー。ほかの作品に『月とアルマジロ』(講談社)、『大人ドロップ』(小学館)、『星空の下のひなた。』(光文社)、『ヒマワリのキス』(徳間書店)、『アクアノートとクラゲの涙』(メディアファクトリー)がある。

 


ニッポン 食の遺餐探訪

和食を世界遺産に、という動きが農林水産省を中心にはじまっている。日本料理はここ十年余りの世界的な流行になり、外国の料理人の多くも関心を持っていて、誰もがそれを理解しようとしている。しかし、当の日本人の多くは日本料理を理解できていないのではないか。そこでこの連載では、日本の食を支えている道具や食材をつくっている生産者、職人を訪れて、私たち日本人が知らない日本の“食の遺餐”を紹介していく。 

「ニッポン 食の遺餐探訪」

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