46歳で志らくに弟子入り
50歳で二ツ目、61歳で真打に

――医師としてすっかり地歩を固められていたにもかかわらず、落語家に転身された経緯はどのようなものだったのでしょうか。

らく朝 全部話すと3時間くらいかかりますけど(笑)。もともと演劇が好きで高校時代は演劇をしていましたが、大学には演劇部がなかった。それに、演劇は脚本、照明、音楽、衣装、演出、役者などたくさんの人を集めなければ成り立ちません。お金も必要です。人もお金も要らなくて、演劇のようなものというと、落語なら一人で全部できるじゃないかと。布一枚を暗幕にして、台があれば、高座になる。それで、大学で落研を作って、6年間打ち込みましたが、医学部を卒業すると、研修が始まり、否応なく仕事をせざるを得なかった。臨床や研究や診療に追われ、学位論文も書いて、気がついたら40になっていました。落語を諦めたつもりはなく、ずっと心のどこかでまだ落語家になるかもしれないという気持ちがありました。
 
 そんなとき『あなたも落語家になれる』(三一書房、1985年刊)という本に出会いました。私の師匠立川志らくのさらに師匠、立川談志が書いたものです。本によると談志は社会人の弟子を取るというので、すぐに本の奥付にあった事務所に電話したら、係の人が冷めた声で、「あなた、それは15年前の本で、いまはやっていません」と。私が電話口であまりにしょげていて、係の人も気の毒に思ったんでしょうね。談志の弟子の立川志らくが社会人向けの勉強会をしているから、そこへ行ってごらんなさいと教えてくれました。そこで10年ぶりに小話をしたら、火がついてしまい、もう落語がやりたくてやりたくて矢も盾もたまらず、「弟子にして下さい」と志らくに懇願した。私は妻子を養う身でもあり、志らくより10も年上でしたから、隣で聞いていた事務所の社長がすげなく「無理ですね」と。ここでもまた私があまりにしょげかえったのを、志らくが気の毒に思ったんでしょうね(笑)。特別に客分という形の弟子にしてくれたのが44歳のときでした。

 客分というのは本当の弟子ではなく、月謝を払って落語を習う。高座には出せませんよと。毎週1本ずつ志らく師匠がテープに吹き込んだ話を覚えて、師匠の前で話す、それを一年続けて50本のレパートリーができました。そうしたら、「無理だ」といった事務所の社長が今度はプロにならないかと。ただ、それは医者との兼業ができないということです。子どもも小さいのに無収入というわけにはいかず、3カ月悩みました。そうしたら、志らくがしびれを切らして、ある日楽屋ですれ違いざま、「それで、どうするの」と言うので、一瞬頭が真っ白になって、反射的に「お願いします」と言ってしまった。46歳でした。50歳で落語界一人前とされる二ツ目、61歳で世間で一人前の落語家として認識される真打になりました。

――いろいろご苦労もおありだったと思いますが

らく朝 すでに社会人ですから、師匠に一日中付き従って、礼儀作法や社会常識を学ぶ「カバン持ち」は免除されました。一番苦労したのは、新作を作ることでした。二ツ目になってから毎月新作をひとつ作ると決めたものの、ぎりぎりにならないとできない。前日にひねり出したこともありましたが、受けなかったなあ(笑)。だいたい三日前には話ができていないと、どう話すかというクオリティを上げるための稽古ができなくて、だめなんですよ。