ノーを言わないのが執事の仕事

――それから20年以上、夫妻に仕えることになるとは、想像されていましたか。

 いや、それは思っていなかったです。ご夫妻も思っていなかったかもしれないですね。実際、夫妻の私の扱いは、会社から大事な人を預かっている、という感覚でした。決して上から目線になったりはしませんでした。年齢的にも孫くらいですし、実際、孫のように大事にしてもらえました。

――執事というのは、具体的には、どんな仕事をしておられたんですか。

 ルーティンとしては、幸之助さんを尋ねて来られるVIPの接遇、文書管理、電話対応、出入りの人との交渉役です。まさに主人の留守番役ですね。夫人の補佐をして、幸之助さんが留守の家で代わりを務める。ご主人を訪ねてきた人に夫人が会えないときには、代理を務めたり。
ただ、それ以外にも細々とした、いろんな仕事がありましたから、家に関する一切の雑事を委ねられていた、といっていいと思います。そのたびごとに判断をし、指示を出す。

 ですから夫人とは、ご主人の幸之助さんよりも長い時間を一緒に過ごしたのが私だったかもしれません。いろんな話をしました。いろんなところに出掛けました。

 むめのさんも気さくな人でした。でも、私だけでなく、誰に対しても分け隔てなく接する人でした。ですから、松下邸では、和気藹々とスタッフたちと過ごせましたね。

 私が意識していたのは、できるだけノーを言わないことです。何事でも、頼まれたらまずは引き受けてやってみる。そう考えていました。

――むめの夫人に接しておられて、驚かれたことはありましたか。

 幸之助夫人というと、特殊な世界の人のように思う人もおられるかもしれませんが、まったくそんなことはない。言葉はなんですが、ごく普通のおばさんなんですよ。買い物も自分で行かれましたし。

 幸之助さんほどの社会的に立場もある偉い人の夫人が、偉ぶらず、謙虚にして、性根がいいわけです。世間で持たれがちな、お金持ちの家の奥さんのイメージとはまったく違う。これは驚いたといえば、驚きました。

――そんなむめのさんについて、小説をお書きになられることになった。これは、何かきっかけがおありだったのでしょうか。

 夫妻の没後、私は幸之助さんの志を広めるために1995年に設立された、財団法人松下社会科学振興財団の支配人になりました。ここで10年間で5万人くらいの人々に、幸之助さんの理念について語っていたんです。

 そのとき、幸之助さんの話以外に、むめの夫人についての話も聞きたい、というリクエストがときどきありましてね。それで話をさせていただくと、これがまた好評だったんです。口伝えで、自分たちも夫人の話が聞きたい、とおいでになるケースもありました。

『神様の女房』著者インタビュー(前編)<br />最後の執事が語る「幸之助の妻」の素顔松下幸之助社長夫妻、オランダへ出発(1960年)