2年前の今日、2015年9月27日に、涙なくして語れない森本稀哲氏の引退試合が行われた。そして現在、引退後、初めての著作となる『気にしない。どんな逆境にも負けない心を強くする習慣』が重版、話題を呼んでいる。先日、八重洲ブックセンター本店(東京)で行われたトークショー&サイン会は超満員! 今回は、その時行なわれたトークショーをレポートする。

「どんな逆境にも負けない心を強くする習慣」は、こうして生まれた

会場は超満員! 笑いの絶えない1時間にわたるトークショーが行われた!

――北海道・札幌でもトークショーが行なわれましたが、東京での開催はどうですか?

 野球選手じゃない僕に会いに来て下さるなんて、皆さん、僕のこと好きですね!(笑)

 こうして集まってくれて本当にうれしいですけど、本を書くことに、相当エネルギーを使いました。最初、「本なんて書けません」という気持ちだったんです。

 そもそも、本を出す実績がないわけですから。2000本を打ったわけでもありません。

 そんなとき、「稀哲さんて、なんでそんなに元気なんですか?」という質問がきたんです。

「確かに元気だけど、なんでかな?」と。それに答えていくと、「それ、いい話ですね」と言ってくれたんです。

 自分にとっては、当たり前だと思っていたことが、「いい話じゃないですか」「それはなかなか経験できないことです」と反応してくれたんですよね。

 病気のことについて、あまり表に出すことを現役の頃もしてこなかったんですけど、同じ境遇の人がいて、その人たちの力になれるならと。

 はじめて、自分の病気を打ち合わせで赤裸々に語ったときに、「それはすごい精神力。それを次に生かすエネルギーとして、みんなほしいですよ!」と意見をもらい、「それでは、始めますか」となったんです。

――これまでの人生を振り返り、逆境から元気になるポイントを50本出しました。これは大変な作業で、すごいことです。

 編集者との勝負でした。僕は、「やる気を試されている」と受け取りました。

 ただ、自分の過去を思い出すのって、たいへん! そこにタイムスリップしようとしてもなかなか思い出せない。なんとか絞り出して出せたわけです。

――その中から厳選されたコンテンツが、サブタイトルにもある「どんな逆境にも負けない心を強くする習慣」として、40本収録されています。

「しくじり先生」で語れなかったこと、伝えたかったこと

Tシャツをチェック!

――「しくじり先生」の出演はいかがでしたか?

 じつは、今日来ているTシャツの文字だけバージョンをユニホームの下に着ていったんです。もし録画されている人がいたら、確認してみてください。ファイターズ時代のユニホーム「1番」を着ているときに、うっすら映っています。メッシュの素材なので、見えるんですよね。

 収録では、3時間も話しました!

 自分で言うのもなんなんですけど、内容はよかったと思うんです。ただ、何をしゃべったかまったく覚えてない。やりきりましたね!

 番組は1時間なので、カットされているところも多く、何がありましたかねー。

――オリジナルグッズの詳細な話や、10万円ブーツの話とか?

 あ、そうですね。現役時代、オリジナルグッズをつくったことがあるんです。会場にも、今日、その帽子をかぶっている方がいます! うれしい!! 結構、高くなかったですか?(笑)

 いろいろつくったのですが、パーカは2万6000円の値段でした。全然売れずに、自分で買い取ったほどです。

 あと、10万円ブーツ。新庄さんが「ニーハイブーツをつくるぞ!」と誘ってくれて、僕もついていったんです。「めっちゃかっこいいからつくれ!」と。それが10万円。価格はもっとしたんじゃないかなー。履いてみたら、膝の上まであるから、曲がらないんですよ(笑)。

 新庄さんは番組で履いていたのを一度だけみたんですけど、僕は結局、履かずに捨てました(笑)。

――新庄さんのVTRの存在は知っていたんですか?

 知らなかったですね。新庄さんが「逃げたんじゃないか」と、言いにくいことを言ってくれたことに感謝です。

 ただ、ベイスターズに移籍すると決めたときは、逃げでもなんでもなく、チャレンジしたい気持ちでした。

 僕がベイスターズに行くとき、チームはBクラスの成績でそのときに入団。日本ハムが常勝時代のとき、FAさせてもらって、結果は出なかったんですけど、新天地でチャレンジしたかったんです。

 今、言えることは、「ファイターズで起こったこと」「ベイスターズで起こったこと」「ライオンズで起こったこと」、どれかひとつでも欠けていたら、僕は未完成のまま、野球人生を終わっていました。

 3つのステージで学べたことで、野球人として、完璧に完結したと言えます!

 ファイターズ時代は、最低年俸の底辺からがんばって、レギュラーになれずにくすぶり続けて、ようやくレギュラーになれて優勝を経験。調子に乗って結果が出なくて、でも、もう1回結果を出そうと、ベイスターズに移籍。いちばん辛い時期を過ごして、最後の2年間をライオンズでおもいっきりぶつけた。最高の野球人生です。やりきりました!

――本の冒頭にある写真を見ても、それが伝わってきます。

 この写真、よく残っていたと思いませんか? まだ、2軍と1軍を行き来している2003年の9月下旬から11月まで、正田樹と2人で、ヤンキースに野球留学したとき、ヤンキース2Aの監督をしていたヒルマン監督と写真をとったんです。

 普通、選手と写真を撮るじゃないですか(笑)? なぜか監督といっしょに。その後、ファイターズに監督として来たのも奇跡。そして、僕の能力を引き出してくれたのも奇跡。奇跡って続いているんですけど、こうして振り返って、写真を見たとき、運命を感じました。

 そして、いちばん最初にある、うちの親父が僕に似過ぎですよね(笑)。僕も子どもを抱っこしている写真がありますけど、この前、暗いリビングで、「じいじと子どもの写真があるな」と思って写真を見ていたら、それが自分で! こんなに似ているのか、と(笑)。

 テコンドーをしているときの写真も、ライオンズの帽子をかぶっていて、運命を感じますね。

――両親からのリアクションはありましたか?

 それが、いちばんリアクションが薄かったのは、両親でした。母は、僕が病気で苦しんでいるときに、いちばんつらかっただろうなと思っていたので、意外でした。その当時、僕がふさぎ込んでいた時期で、家からなかなか出られなかったときでしたし……。

 本を読んだと聞いたので、「どうだった?」と聞いたら、「いい本だった」とひと言。「ずこっ!」となりましたよ(笑)。父も何も言ってこなかったですね。

 表紙の反対側に直筆で書かれていますが、本がまとまってくるときに、「結局は病気になって良かったよね」というひと言が出た。病気になっても元気になれたし、今となっては、「病気になって良かったよね」なんて、話す時代が来るとはまったく思いもしませんでしたけど。病院行くときも、僕は「いやだ!」と言っていて、母から「グローブを買ってあげるから行こうよ」と言われて、「じゃあ行く」と。そんなことがあったので、こうして本をつくって、今そう思うことができたので、親孝行できたのかなと思っています。

チームに伝えたかったことが
あの引退試合で伝わっていたことを知る

最後に語る熱い話に、誰一人席を立たず、聞き入っていた

――森本稀哲を語るうえで忘れてはいけないのが、2015年9月27日の引退試合ですね。

 ちょっと遡るんですが、ベイスターズに入って3年、選手としてまったく結果を残せなかったんです。ファイターズのときに気づかなかったことを、ベイスターズで気づかせてもらった。レギュラーで出ているときは、ちやほやされて、「がんばってね」といつも言われていましたし……。

 ベイスターズに期待されて行ったのにもかかわらず、3年間、結果が出ず、「もう少し仕事をしろ!」と言われましたし、チーム内からもそういう目で見られているんじゃないかと、勝手に思い込んでいました。

 人って、何をやってもうまくいかないとき、自分のことを考えさせられます。

「チャンスがもらえないとき、何をしなきゃいけないのか?」

 そんなとき、自分が野球選手としてある姿をみつけました。

 こういうつらいときに、いつも以上に全力でできるかどうか、自分が何をしなきゃいけないのか。
 ヒットを打てても打てなくてもどうでもいい。チャンスがないからと、手を抜いたら、おしまいだな、と。より全力、より準備をするようになった。その姿を見せるようにしました。

 やり通して、戦力外になった。

 その姿をライオンズの人が見ていてくれたんです。その3年間で学んだこと、ファイターズのときにレギュラーで見えていたことを引っさげて、ライオンズに入団しました。僕のなかでは1年のつもりで行きました。

 なにかライオンズで残したい。

「選手として、いいときばっかりじゃないよ」「結果が出ないときの行動をみんな見ているよ」――もちろん、レギュラーを取るつもりで行きましたけど、とにかく準備の大事さ、全力で出しきることを、心がけました。

 1年目はそこそこの成績で、2年目も契約をしてもらいましたが、ヒットが打てない。引退すると決めたとき、僕はみんなに何を残せたかを考えました。

 2年間しかいなかった僕に、打席を回そうと、チームがひとつになってくれたことがとにかくうれしかった。

それこそ、僕がライオンズに伝えたかったこと。

 ライオンズは能力の高い選手がいっぱいいるのに、チームとして結果につながらなかった。でも、相手ピッチャーからすると、いちばん対戦したくないのは、ライオンズ打線と言うんです。

 僕が残そうとしたことが、伝わったんだと。もちろん、打席に立てたことはうれしかったんですけど、ああいう一体感が生まれたことがいちばんうれしかったし、それは自分が心から伝えようとしたことが伝わったんだと思った瞬間でもあります。

 あのときは「僕」でしたけど、「優勝」という目的のために、一体感が生まれてほしい。そう願い、2年間の集大成があの試合に出ました。

 この1日が最後と毎日考えながら、2年間やってきましたし、まったく悔いはありません!

 と、少し真面目に話してしまいましたが(笑)、本は残るもの。僕らはフィンセント・ファン・ゴッホを目指します! 死んでからかなー、評価されるのは……(笑)。皆さん、生前で来てくれているわけですから、見る目がありますよ(笑)。いつかこの本を子どもが見るわけですから、大事な1冊です。

――現役時代を終えて、これからの人生のほうが長い。将来の展望はありますか?

 今までは野球をやっていればいい人生でした。野球をやっているのは、人生の一部だとは思っていましたが、その先はまったく考えてこなかったんです。

 野球をやめて、どうなるかわからないけど、野球で学んだことを何かに活かすのは、チャンスとして無限大と考えていました。貯金を削りながら、第二の人生を考えていこうと思っていたんです。

 ふたをあけてみたら、北海道の番組に声をかけてもらい、野球の解説や講演をする日々……。自分が思っていたことと、全く違う道を歩んでいます。

「自分がどうしたい」というより、「今は必要とされているところで自分を活かしたい」です。

 そして、自分磨きをしていかないと、今後勝負できない。野球選手って、いち社会ではたいした能力はない。野球しかできないし、ヘタしたら漢字が書けない(笑)。

「なんでもやってみます!」というほうが伸びるし、現役を終えて2年、僕はまさにその時期だと思っています。今はチャレンジに励み、伝える技術のスキルアップをしていく。

 もし、ユニホームを着るときが来たら、選手の能力を引き出してあげられるかどうかが大事なわけで、自分のスキルアップにこれからも励んでいきます。