石巻港に向かって800メートルほどのところまで、押し寄せたがれきが街を埋め尽くした(2011年3月24日、石巻市門脇町)
Photo by Yoriko Kato

 死者3280人(うち市民2776人)、行方不明者553人と、3月2日現在、被災3県の自治体の中でも、非常に甚大な被害を受けた宮城県石巻市。私は、震災12日後の昨年3月23日に初めて石巻市に入って以来、かれこれ20回余りにわたって、石巻を中心にした被災地を歩いてきた。

 当初は、取材の仕事で訪ねたつもりだった。ところが、石巻市の出身者から生活物資の運搬を頼まれ、たくさんの被災者の方に出会い、また私自身、祖母の実家が石巻市の「門脇大街道」(昭和初期の本籍地)だったこともわかって、被災地で授かった“命の言葉”を伝え続けることが自分の責務だと考え、まるで犠牲者たちや先祖に突き動かされるように行動してきた。

 その1つが、私たち仲間が石巻市出身者の人たちとともに、今年2月19日、東京の銀座で行ったチャリティーイベント「石巻を知る。」だ。といっても、私は単なる呼びかけ人。同じ思いを持つ他の皆が、ボランティアでイベントをすべて仕切ってくれた。

616万トンの瓦礫に、約5500人の転出超過
石巻では終わっていない“震災の現実”

震災から半年経ったこの日、津波の犠牲になった両親のために、実家の前で黙祷する夫婦。本来は海が見える所には、大量のがれきが積み重なる(2011年9月11日、石巻市門脇町)
Photo by Yoriko Kato

 当日は、市民の撮った市街地の津波の映像や、撮影途中のドキュメンタリー映画『宮城からの報告~子ども・学校・地域』(青池憲司監督)第1部の上映が行われ、震災当時、門脇小学校長として、校内にいた全児童を裏手の日和山に避難誘導した、鈴木洋子元校長の講演も行われた。津波の映像には、顔にしわを寄せて驚く参加者もいた。

 また、前石巻市教育長の阿部和夫さんから、震災から1年近く経つ、衝撃的な市の現状が報告された。

「新聞に、ある家族8人の死亡広告が掲載されていた。一家全滅です。石巻市の誰もが、親戚知人の誰かを亡くしている」

「昨年8月4日、石巻かほく紙の裏面はすべて死亡広告でした。こういう日がずっと続いていて、いまでも死亡広告が新聞に出る。やっと身元が確認できたか、やっと踏ん切りがついたということだろう」

「仮設住宅は、すべての地区の公園、グランド、民間会社の土地を借り受けて建てられた。134団地に6938戸、16638人が居住している。本当の課題は、これから先。期限は2年間なので、その後どこに住むのか。元の場所に戻れるのか?集団移転するのか?地域のコミュニティは継続できるのか?雄勝地区のある集落は、震災1ヵ月後に解散を決議。江戸時代からの村が消滅した。そんな集落が2ヵ所あります」