サラリーマンから再びフリーランスへ。

竹熊 今思うとゲームフリークに残っていればよかった、と思うことはありますか?

とみさわ 実をいうと当時の会社の状況から自分はゲームフリークの、というより『ポケットモンスター』の広報を任せられるだろうと感じていた。でも、クリエイターとして同じことをやり続けるのがイヤでした。もっといろんなことがしたかったんです。きっとこのままだと『ポケットモンスター』一色になるだろうという気がしたんです。

フリーとして「好き」を貫く代償――とみさわ昭仁の場合。【前編】竹熊健太郎(たけくま・けんたろう)
1960年、東京生まれ。編集家・フリーライター。多摩美術大学非常勤講師。高校時代に作ったミニコミ(同人誌)がきっかけで、1980年からフリーランスに。1989年に小学館ビッグコミックスピリッツで相原コージと連載した『サルまん・サルでも描けるまんが教室』が代表作になる。以後、マンガ原作・ライター業を経て、2008年に京都精華大学マンガ学部の専任教授となり、これが生涯唯一の「就職」になるが、2015年に退職。同年、電脳マヴォ合同会社を立ち上げ、代表社員になる。4月に『フリーランス、40歳の壁――自由業者は、どうして40歳から仕事が減るのか?』を上梓。

竹熊 そこでサラリーマンとして生涯を終えるのではなくて、フリーに戻ってしまったんですね。この本(『フリーランス、40歳の壁』)は、フリーランスに「ならざるをえない」人々のための本でもあるんです。恐らく、とみさわさんもそうだろうと思っていたんです。

とみさわ はい。そして、フリーに戻った瞬間にアスキーからゲームを作ってほしいという依頼がありました。当時、アスキーは『ダービースタリオン』というゲームが大当たりしていて。その余裕もあってか結構な金額を積まれて、「とみさわ君が中心になって作ってほしい」と言われました。当時、千葉の実家の近くに引っ込んでいたのですが、当時アスキーのあった初台の近く、明大前に住むようになりました。1995年7月のことです。個人事務所を借りて、アシスタントも雇って。並行してゲームライターも細々とは続けていました。結果、『ガンプル』というゲームを作ったんですが、これは僕としては不本意でした。プログラマーとのコミュニケ―ションが上手くいかなかったんです。なので、完成間近でプロジェクトから離れることとなりました。スタート画面には僕のクレジットは入ってはいるんですが。

フリーとして「好き」を貫く代償――とみさわ昭仁の場合。【前編】『ガンプル』(1997年、アスキー)

竹熊  『ガンプル』は売れたんでしょうか?

とみさわ 全然売れなかったです(笑)。1年半くらい時間を掛けたんですけどね。その後もいろんなゲーム会社さんから制作に携わるお話を頂くことが続きました。なので、ライターというより、ゲームデザイナーとしての仕事が中心になっていきました。シナリオだけでなくどんな世界観とかどんなマップとか、主要なキャラクターのイメージやレイアウト、動作一覧みたいなものを書く仕事ですね。「仕様書」を書く人というイメージでしょうか。
この仕事の傍ら、1999年に僕は結婚して、2000年、39歳のときに子どもが出来たんです。そして、この妊娠の際に妻の持病が発覚するんです。妊娠初期にしては体調がおかしい、ということで検査をしたら病気だということが分かったんです。この頃は看病しつつ、子育てをして、同時にゲームデザイナーやライターとしての仕事が減っていって辛い時期でした。その頃は妻の実家に住んでいたんですが、まさに「40歳の壁」にぶつかっていた時期でした。
 そのとき、僕はゲームフリークに泣きついたんです。当時は『ポケットモンスター』でどんどん会社が大きくなっていました。そのときに頂いた仕事が『ポケットモンスター ルビー・サファイア』だったんです。このシナリオを書かせて頂いたんです。この仕事のおかげで2年ほど食い繋ぐことができた。で、その後に契約社員としてゲームフリークに入社させて頂いたんです。一度、こっちの都合で辞めているのに受け入れてくれて感謝しかないです。創業のメンバーには本当に助けてもらったと思います。
 それで2002年にゲームフリークに契約社員として復帰します。だから僕の「40歳の壁」は人に助けてもらったことで超えることが出来たと思っているんです。それまでのキャリアのおかげもありますが。

フリーとして「好き」を貫く代償――とみさわ昭仁の場合。【前編】

(後編に続く)
※この取材は2015年5月に行われました