市長の仕事場は「デスゾーン」

福岡市長・高島宗一郎氏高島宗一郎(たかしま・そういちろう)
1974年大分県生まれ。大学卒業後はアナウンサーとして 朝の情報番組などを担当。2010年に退社後、36歳で福岡市長選挙に出馬し当選。2014年と2018年いずれも、史上最多得票を更新し再選(2018年11月現在)。熊本地震の際には積極的な支援活動とSNSによる情報発信などが多方面から評価され、博多駅前道路陥没事故では1週間での復旧が国内外から注目された。『福岡市を経営する』が初の著書となる。

 あるとき、世界最高齢でエベレストに登った三浦雄一郎(みうらゆういちろう)さんの息子さん、三浦豪太(ごうた)さんからお話をうかがう機会がありました。彼がエベレストの山頂付近の写真を見せてくれたとき、私は何も考えずに「きれいだなあ、行ってみたいなあ」とつぶやきました。すると、三浦さんはこう言いました。

「ここはデスゾーンと言います。酸素濃度は地上の3分の1程度で、酸素マスクを外したら普通の人は2、3分で意識を失います。気圧が低すぎてヘリコプターも飛べません。動物が生きられないから、ここは汚す人が誰もいない。だからきれいなのです」

 私はデスゾーンという言葉をはじめて聞いて、思わずハッとしました。本当に命を賭けている登山家と自分を重ねるつもりはありません。しかしあくまでイメージとして「素人から見れば幻想的に見える山頂こそ空気が薄くてとても生きづらい」というのは、大企業の経営者など「一見華やかに見えるけれど大きな責任を背負った人が生きる場所」と同じなのではないか、と思ったのです。

 あなたは市長がどんな生活をしているのか想像してみたことはあるでしょうか?
「運転手さんのいる公用車はさぞ乗り心地がいいのだろうな」とか「自分が市長になったら、あれもやりたい、これもやりたい」などと想像をふくらませる人もいらっしゃると思います。でもそれは、もしかすると私がエベレストの写真を見ながら「きれいだなあ、行ってみたいなあ」と言ったのと同じことかもしれません。

 福岡市民は2018年10月時点で約158万人です。そのトップである市長という立場も、ある意味では「デスゾーン」と似ているのかもしれません。ここでは、高い山と同じく空気が薄いので生きづらく、なんと言ってもメンタル、心臓の強さは必須です。

 私が足を踏み入れた行政の世界は、一般的な民間企業とは違います。いろんな価値観の人が同じ街に住んでいますが、行政は行政サービスの対象者を選ぶことはできません。「うちの商品がイヤなら買わなくて結構!」とは言えませんから、いろんな立場や考え方の人に納得していただかなくてはいけない。あちらを立てればこちらが立たず。それは想像をはるかに超えるハレーションのど真ん中なのです。

 市役所の政策判断に反対する市民から市長が告発されることもしばしばあります。裁判所など自分の人生には無縁と思っていたのですが、今では告発したりされたりが特別ではなくなってしまいました。

 パーティーや会合でも油断はできません。ある祝賀会でのこと。たくさんの方が名刺を持って来られたので次々に対応していたのですが、後日、その名刺を悪用され「市長とは話がついている」と役所に売り込みにくる詐欺まがいの手口に使われたこともあります。他都市の市長さんと話していても、やはりみなさん同じような経験をされています。ですから会合などでは、できる限りひとりにならないようにし、不特定多数の方が集まって名刺交換せざるをえないような場はなるべく避けるようにしています。