ダジャレの押し出しが強すぎると
予定調和的なレスをせざるを得ない
本来知的で粋な言葉遊びであるダジャレが、オヤジギャクなどと浜崎あゆみされる…いや、あゆされる…いや、揶揄される理由のひとつに、「いかにも面白いこと言いました」的に、会話の中で孤立しがちということが挙げられます。
単語がポンと浮いている状態で、たとえばこんな。飲み屋で割り勘、支払時に1万円札しかない。相手にまとめて払ってもらうとする。
「あちゃー、1万円札しかないわ。とりあえず立て替えといて。立て替えと言えば落語家だよな。立て替え談志。なんちゃって。がははは」
おいおいオッサンオッサン…と誰しもそう返したくなるこの展開。なぜそうなるのか? さらっと流して次の会話に移りづらいからなのです。
ダジャレを単語単体で押し出してしまっては、受け手側がそこに対してなんらかレスポンスを求められていると感じるもの。しかし、希有なダージャリスト志望者以外の大部分の人は、ダジャレで返すとか、粋なリアクションすることなどに慣れていない。そこで、予定調和的で誰にでも可能なレス、トホホ調で返さざるを得ないというわけ。みんな、ネタを拾ってあげるいい人と思われたいからこそ、相手の押し出しをだんだん疎ましく思うのですね。この状況が戦後日本の世の中に積もり積もって、ダジャレの迫害視につながっています。
異論もあろうかと思いますが、自作である、立て替え談志は面白いと思っています。拙著『ダジャレ ヌーヴォー』にも収録しましたし。ですが、前述の例では、なんとも冴えない。では、さりげなくキラリと輝くためにはどう使うか?
同じ割り勘状況でならこんな要領です。
「あちゃー、1万円札しかないわ。とりあえず立て替え談志しておいてくれる?」
これぐらい相手の意識の中でサラサラと流れるように使いたいところ。「気付かれなければそれはそれでいい。自分の知的な楽しみにできれば」と、謙虚に思うことです。これは連載第1回に書いたとおり。