ダジャレはトーク中で
楽しむだけのものではない

「じゃあ、契約書のあきこを…いや、雛形を作ってくれたまえ」

 唐突なこんな入りをしましたが、この構文がいかに知的な思考プロセスを育むかを今回解説してみましょう。

 みなさま、ダジャレは「しゃべるもの」と決めつけてはいませんか? それは、助詞、助動詞含みの子どもレベルなオヤジギャグと混同かつ蔑視され、会話中でしかイメージされていないからでありましょう。

 しかし、僕が定義する広義のダジャレは、世界各地で昔からたしなまれていた知的遊戯であり、決してトーク中に笑うためだけのものではありません。もちろんイギリスをはじめとする欧米の「ウィットに富んだ会話」は日本的に言えば“粋”ですが、文字もまた良し。

「単語」としてその構造を愛でる――。視覚から入れて脳内で認識し面白がるのもありなのです。聴覚でなくとも、ライブ感がなくとも、ダジャレの記号的妙味を感じて面白がったり、作るときの知的興奮は、まったく同じ思考回路です。さらに言うとこちらは、「文章中の使い方として」もその粋を堪能できるのです。

さらりと文章に挿入することで
潤いをもたらす「書くダジャレ」

「しゃべり・聞きダジャレ」でなく「書き・読みダジャレ」の場合、ゆっくり作ることが可能。受け手としても、意味を捉えるのはじっくり構えてオッケー。余裕が出るのでコミュニケーションの潤いある楽しみにもってこい。

 しかも、ここからが大事。しゃべりだと、「オレはそんなキャラじゃないし……」とか「照れくさくて……」とか「引かれたくないなあ……」とか雑念が入って、ダジャれない人でもあーら不思議、文字にすればその抵抗感はどこえやらとなるのです。

 加えて受け手もダジャレ含みのメールなど読み、「あら、ふだんお堅いイメージの方なのに、意外とくだけてんのね❤」となるのは間違いないときたもんだこりゃ!