シミュレーション科学に影響を与えた架空の学問

 SFの持つ予測性について、科学的な根拠を持って描いた特異なガジェットが、アイザック・アシモフの『ファウンデーション(銀河帝国興亡史)』シリーズに登場する「心理歴史学(サイコヒストリー)」である。『ファウンデーション』シリーズは、さまざまな星系に人類が植民した、遠い未来を描く作品である。著名な『スターウォーズ』や『銀河英雄伝説』などに先立つ「銀河帝国もの」の先駆けの一つだが、この作品にはハリ・セルダンという科学者が発明した学問、心理歴史学というガジェットが登場する。

 ハリ・セルダンは、分子個々の動きはランダムで予測がつかなくても、その分子の集合体の動きは熱力学や流体力学のように、予測できてしまうと考えた。そして、彼はその考えを人々の動きを予測することに適用し、未来の人々の心の歴史を作り上げてしまう。ハリ・セルダンが亡くなった後も、彼の作り上げたセルダン・プランに従って、物語は展開していく。

「個々の人間の動きは予測不可能であっても、総体としての人間社会の動きはシミュレート可能である」という心理歴史学の逆説的なアイデアは、後に誕生するシミュレーション科学の考え方に近い。シミュレーションは科学の歴史の中で、実験から世界を知る経験科学、理論を立てて世界を知る理論科学に続く、第三の科学的手法として誕生した。

 言うまでもなく、私たちの社会は複雑だ。例えば新しい都市を設計する際、どこに道路を造るべきか。実際に道路を造って人々がどう動くか、試して検証する時間やコストは多大である。かといって、「道は真っすぐの方がいい」という単純な原則だけでは社会は設計できないし、個々の人間の行動理論を一つ一つ立てて検証しようとしても、検討する要素が多くなり過ぎる。

 実験でも理論でも届かない答えを探るときに使うのが、シミュレーションと呼ばれる手法である。個々の人間の動きをシミュレートし、コンピューターの中であり得た世界を数百万通り作り上げる。個別の人間の動きは世界によってさまざまだが、その世界の傾向から、最適な道路の設計が分かってくる。これがシミュレーション、より正確に言えば、マルチエージェントシミュレーションと呼ばれる分野である。この学問は都市設計だけでなく、防災や経済、医療環境設計、経済学にも応用される基本技術の一つとなった。地味だが、私たちの社会設計を下支えする基盤となった分野である。