「ウクライナ正教会としての独立」は悲願

 その後、キエフ大公国は12世紀の半ばころには分領制時代へと突入して、群雄割拠となっていきます。そんな時代のキエフは、キエフ大公国の封建体制下にあったキエフ公国の行政の中心地であり、「母なる都市」と称され、ウラジーミル1世を輩出したリューリク家一族の遺産と考えられていたようです。

 1438年にフィレンツェで開催されたカトリックとの会議に出席したのは、モスクワの大主教ではなく、キエフの大主教だったようですので、やはり東スラブの代表はキエフであると考えられていたのは間違いありません。

 一方、キエフ府主教庁はタタール人との戦いを通じて、ウラジーミルという都市を経て、モスクワへと移動してモスクワ府主教庁となります。モスクワ府主教庁がコンスタンティノープル総主教庁から独立して、ロシア正教会が誕生します。

 このロシア正教会のトップがモスクワ総主教です。そして1686年にはウクライナ正教会をロシア正教会の傘下に置くことをコンスタンティノープル総主教から認められているわけです。

 現在のウクライナに存在する正教会は、17世紀以降は「ロシア正教会の管轄下」にありました。1917年のロシア革命にさいし、「ロシア正教会」の一教区ではなく、「ウクライナ正教会」として独立すべきではないかという議論がなされ、それ以後、「ウクライナ正教会としての独立は悲願」となっているのです。

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