「浅い話」をしがちな人の共通点とは?派手で斬新な“極論”の甘い罠写真はイメージです Photo:PIXTA

すらすらとよく話すのに、後から思い返してみると「中身のない話だったな……」ということはありませんか?「浅い話」と「深い話」の違いはどこにあるのでしょうか。そして「深い話」をするためには何が必要なのでしょうか。まずは「深い」とは何なのかを知ることが重要です。

※本稿は、齋藤孝『いつも「話が浅い」人、なぜか「話が深い」人』(詩想社新書)の一部を抜粋・編集したものです。

深さとは「具体的かつ本質的」なものだ

 人は、「具体的かつ本質的」なものに、「深さ」を感じるものです。

 つまり、非常にシンプルで具体的でありながら、同時に、その奥にあるものごとの本質、普遍的な意味を提示していると、聞き手は「深い」印象をもちます。

 もちろん、深さを感じるパターンは、これ以外にもいくつかあり、難解で多様な解釈が可能な長編小説の「複雑さ」のなかにも深さはあります。

 しかし、私たちが日常で接する「深さ」という点でいえば、もっとシンプルな「具体的かつ本質的」なものが、多くの人に「深い」という印象を与えるはずです。

 この「具体的かつ本質的」という感覚を理解するためには、偉人たちが残した名言を味わっていただくことが近道だと思います。

哲学者の名言には本質がある

 たとえば、デカルトの言葉に、「我思う、ゆえに我あり」(「Cogito ergo sum」)があります。これは、「自分が疑っているということだけは、疑い得ない」というシンプルな命題です。そこには、いろいろなものを疑ってかかったとしても、そのいま、疑っている主体としての自己の存在だけは確実であるという本質が述べられています。

 それまで「信仰」によって真理を得ようとしていたキリスト教的神学から、人間の理性によって真理を探求しようという近代哲学の幕開けを意味するものでもあります。

 とても具体的でシンプルな一文ですが、哲学というものの本質を突いているからこそ、この言葉が私たちの心を動かし、現在に至るまで残っているのです。

 ソクラテスの「無知の知」という言葉も深いものです。自分が知らないということを知っている人と、自分が知らないということを知らずに、知っていると思い込んでいる人との間には大きな差があることをソクラテスは指摘しています。

 むしろ、知らないということを知っている人のほうが知恵があるのだという意味です。これもシンプルで具体的でありながら、「賢い」とはどういうことかという本質を突いた言葉といえるでしょう。

 日本において、この「具体的かつ本質的」という表現を、芸術の域にまで高めたのが俳句です。名句が人の心を打つのも、それが「具体的かつ本質的」だからです。