「本質」とは斬新なものより「一見、平凡なもの」にある

 一方で、多面的にものを見て本質に迫った意見は、極論のような明快さや、発言者の意図が前面に出るような、押し出しの強さもありません。ともすると、まわりの意見に流されているようにも見えます。

 もちろん、ただまわりに流されているだけのどっちつかずの意見であれば、聞き手の心に響かない「あいまい」なものにしかならないでしょう。しかし、確固たる自分の判断、意見を保ちつつ、広く別の意見も練り込んでまとめた意見は「あいまい」ではなく「中庸」というべきものです。

偏ることなく本質をとらえた「中庸」

 中庸とは、一見、平凡なものに見えるかもしれませんが、さまざまな意見を包摂し、ものごとの本質をとらえたものであるということができます。多くの人の納得を得ることができる絶妙のバランスであり、そこには、考え抜かれた深みがあるといっていいでしょう。

 中庸の大切さは、孔子も「中庸の徳たるや、それ至れるかな」という言葉を残し、いくつかある徳のなかでも、中庸が至高の徳であると指摘しています。

 古代ギリシャの哲学者、アリストテレスも『ニコマコス倫理学』のなかで、中庸の徳を説いています。たとえば、「勇」とはどのような状態かといえば、それが極端に少ないと「臆病」になり、過剰であると「蛮勇」となります。臆病と蛮勇の間のちょうどいいくらいのところに「勇」があるのです。

 このように二千数百年前から、どちらかに偏ることのない絶妙なバランスとしての中庸が、徳というものの中心に置かれていました。そして現代でも、深みのあるものの見方や、大人としての「深さ」は、中庸であることが体現するものといえます。

 斬新で尖った意見は、耳目を集めますが、結局は、「浅い」ものに陥りがちです。それよりも、多面的にものごとをとらえる「中庸」こそが本質を突いていて、だからこそ「深さ」をもたらすのです。

 なんらかの意見表明をしたり、決定を下す際には、この「中庸」を意識することで、浅はかな結果に陥ることを避けることができます。

深みのある「中庸」を身につける習慣

 深い話、深い意見というのは、極論ではなく、中庸の感覚がもたらすものです。ただ、絶妙のバランスである中庸の感覚はすぐに身につくものでもありません。

 自分の意見、ひとつの見方に固執せず、別の視点からはどう見えるのだろうかと常に思考し、多くの人の話を聞く柔軟な姿勢が大切です。

 特に、自分の意見などを表明しなければならないときは、一度、自分の考えがまとまったところで思考を終わりにするのではなく、いったん自分の考えは脇に置いておき、そこからまた別の人の意見を聞いたり、別の考えを調べたりするという行動を習慣にしてください。