数学の学びをあきらめない

――元来保守的な教員が、大学入試に合わせて変えたカリキュラムの典型例が「文理選択」です。これは一般選抜に向けた合理化です。

人生100年時代を生きる力「探究」的リテラシー[聞き手] 後藤健夫(ごとう・たけお)
教育ジャーナリスト。1961年愛知県生まれ。南山大学卒業後、河合塾へ。独立して大学コンサルタント。早稲田大学法科大学院設立に参加。元東京工科大学広報課長、入試課長。「日本経済新聞」で受験のリアル・大学編を連載中。 Photo by Kuniko Hirano

河添 大学入試のために「文理分け」を強く意識するのは日本だけの特殊な現象です。そもそも海外は文理の意識はあまり強くないですし、「あなたは文系タイプ」とか固定することはない。数学教育の立場からすると、高校1年で数学から遠ざかることは何とかしないといけない。英語もやらないといけないから理数の授業時間が減らされるという現実もあるのでしょう。でもこのことは日本の未来にとって危ない状況です。フランスは今、技術立国として国力を強化していますが、その背景にはかつてナポレオンが「数学が国家を繁栄させる」と言い切った歴史があります。

――難しいことを考えることを嫌ったり、分からないことと格闘することを避けたりし、数学は必須科目だけを受講して必要最低限で高校を卒業しようとする生徒が多いです。大学教育にふさわしい能力となれば広く学ぶべきであり、共通一次(共通第一次学力試験)時代のように5教科7科目を受験で問われてもいいレベルで準備すべきところです。その上で、数学や理科の専門性が高い科目を受けるべきなんですよね。だから、「文理選択」ではなく「理系特化」なのでしょう。

河添 大学生が、中学受験で出るような「割合」の計算ができない。文系志望でも数学が必修なので数学をやることはやる。しかし、高1(数学I・A)で学ぶのをやめると、大学に入るまでの2年のブランクが大きい。数学のリテラシーを養うには、基礎の学習は3年間はやり続けないといけません。

――共通一次は5教科7科目が必須でした。でも、そんなに難しいことを問われるわけではない。京都大などでは合否判定で共通一次の比重が高かったのですが、大学が求めているのは「高校時代に広く学べ」ということなのです。そもそも当時から私大文系3教科は、高校で広く学んでいることを前提にしていて、すべてができなくてもいいからと科目数を減らした結果なんですよね。

 それが大学入学センター試験に代わり、科目を選べるようになってから崩れた。早稲田大が伸び悩んでいるのは、実は「私大文系専願」で3教科しか一生懸命に勉強してこないからです。法科大学院で見ていても、当時、早稲田から入学する学生は学力試験の3教科型ではなく、センター試験利用型で数学を受験していた学生でした。重要なのは、数学的な素養があるかないかです、実は司法試験でも数学的素養がないと苦しいのです。法律は論理ですから。それを理解している中央大は、法科大学院設立に合わせて、法学部のセンター利用型で数学を課すようになりました。

河添 大正末期まで、慶應義塾大学文学部の入試でも数学を課していました。しかし、文系学部では受験生を集めるとなると、数学を外すか選択科目制にするようになりました。最近の早稲田大学政経学部の「数学I・A」の必須化や、東京外国語大学の「数学2科目」必須化は、数学の大切さのメッセージを大学学部が発したという意味で良い傾向です。

――数学は積み上げが大事ですから。基礎的なことを分かっていなかったり忘れていたりでは、うまく積み上がらない。素養にすらならない。

河添 それすらできない人が世の中にはいっぱいいますから(笑)。基礎の学習は3年間はやり続ける。

――使っていないと忘れてしまいます。

河添 昔、曽野綾子さんが「二次方程式がなくても生きてこられた」と発言して物議を醸しましたが、ある意味、彼女は数学の学びの本質を突いていました。数学の学びを、公式を覚える知識の勉強だと教えられればその通りです。その意味で、数学を「役立つための学問」と教えるのは大きな間違いです。役立つ以前に、もっと大切なのです。公式は二の次です。

 アートと同様に、いろいろな表現の美しさを感じることができるのが数学の本質です。アートを「役立つから鑑賞しましょう」なんて誰も言わない。「このように鑑賞しましょう」と言うのは余計なお世話です。公式を覚えられなくても数学の美しさは感じられます。公式を適用して問題が解ける喜びは数学のほんの一部なのです。

 高校で習った二次関数を使えば、いろいろな事象が説明できる、その事象を覚えておけばいいのです。道理は読み返せばいい。「a×b×cと3辺の長さを掛ければ体積が計算できる」と高校の授業で説明したところ、「体積って何ですか?」と聞かれました。計算はできても、現実のものと結び付けられない。問題を解くための知識教育を重視しすぎることによって、学問の本質がゆがめられているわけです。

――まさに素養ですね。そうしたSTEMリテラシー(理系素養)がこれから特に必要になってきます。そうしたリテラシーと受験は結び付かないと一般の人が思っているきらいがある。しかし、リテラシーが身に付いていれば、対応力がしっかりします。

河添 生徒の成績は定期試験や模擬試験で評価されます。そこに教育がフォーカスされる。ですから、知識以外の自由に“遊ぶ”ことを身に付けることが、学校ではなかなかできない。リテラシーというのは、“遊ぶ”ことでいくらでも養うことができると思います。それを知識のように「教え」「覚えよう」とするからおかしくなる。

――リテラシーの捉え方がそもそも間違っているんです。

河添 前にも述べましたが、「探究」という言葉は、総合型選抜を意識すると誤解を招きます。今までの知識ベースの勉強以外に、もっと大切なことを学びましょうというメッセージとして捉えてほしいものです。

――学ぶということでは、全く異なるところで知識や経験を活用できる能力が求められている。現在の教育では、常に直接的な経験や学習でしかモノが考えられない不幸があると思います。一般選抜では、共通テストで見られるように知識の活用が求められる。それに即して言えば、総合型選抜では経験の活用が求められるのです。だから、総合型ではコンテストで表彰された結果だけでは評価しない。

河添 そのことは、前回お話ししたスポーツの例などで説明できますね。