“能動的に学ぶ人格”を形成するために必要なこと

 神戸大学附属特別支援学校は、知的障害のある子どもたちを迎え入れ、小学校レベルの小学部、中学校レベルの中学部、高校レベルの高等部が併設されており、6歳から18歳の子どもたちが50名ほど在籍している。このくらいの人数であれば、忘れっぽくなった私でも、子どもも教職員も全員の顔と名前が一致する。私が「やあ」と声をかけても「お前は誰だ?」という表情を返してくる子どももいるし、私の姿を見つけると「つだっちー」と駆け寄ってきてくれる子どももいる。ちなみに、私は「校長先生」と呼ばれるのが嫌で、子どもたちには「つだっち」と呼ばせている。教職員にも「つだっち」と呼ばれたかったが、さすがにそれは無理だった。

 卒業式には、自作の歌を創り、ピアノでの弾き語りを送辞としてきた。特に高等部の子どもたちを社会に送り出していく卒業式は、会場が熱気を帯びる重要な行事である。以前の卒業式で卒業生に贈った「祝福」の歌詞をご紹介しよう。

君たちはこの学校で生命(いのち)を祝福されましたか
君たちはこれからも前を向いて歩いていけますか

君たちが入学してからずっと
僕は学校について考えてきた
もっともらしい答えはあるけど
僕が言えることはただひとつ

学校はいのちを喜ぶところで
君たちがここにいることを祝う場所なんだ
卒業して巣立っても 
君がいたことを忘れない場所なんだ

君たちはこの学校で生命を祝福されましたか
君たちはこれからも前を向いて歩いていけますか

君たちが入学してからずっと
僕は卒業について考えてきた
出会いがあれば別れもある
もう二度と取り戻せない今がある

心が折れて 生きることが辛いことも
誰にだって あるものだけれど
そんな時も前を向けるのは、
愛された記憶があるから

君たちはこの学校で生命(いのち)を祝福されましたか
君たちはこれからも前を向いて歩いていけますか

 この歌詞は、学校と卒業生に対する私の愛情を表現している。子どもたちが「自分らしく生きていていいんだ」「生まれてきてよかったんだ」と実感することを最優先にする学校の取り組みと、その中で、自分自身や身近な人を素直に愛することを覚えていく子どもたちに、私は教育の原点を学んだように感じている。

 裸になって泥んこ遊びをしたり、一日中ブランコに乗っていたり、砂場の砂を全部掘り返したりといった障害児の行動は、問題行動として制約されることが多い。その代わりに、おとなが望む行動を強制される。それが高じると、子どもは自分の欲求を抑え込むことを覚え、自分から能動的に行動することを忘れていく。そのような状態の子どもが能動性を取り戻すためには、長い時間をかけた精力的な取り組みが必要だ。

 成長したいという気持ち、生きることを楽しみたいという気持ちを大切にして、そうした気持ちを奪い返すことに焦点を当てる神戸大学附属特別支援学校の教育活動は、現代に生きるすべての人の人間形成の根底を問い直す力があるように、私には感じられる。

 私が子どもだった時代、学校に馴染めない子どもの多くは、校内暴力などの逸脱行動によって社会に反抗していた。「不良」と呼ばれた子どもたちは、制服の着方やカバンの持ち方、髪型から靴の履き方まで、身体いっぱいで逸脱を表現していた。しかし、最近では、学校に馴染めない子どもたちや「偏差値が低い」とされる高校生などは、「無気力であることに特徴がある」と言われるようになった。

 この現象は、子どもたちだけの問題ではない。大学生の多くが抱える心の闇ともつながっているように私には思える。自分が何をしたいのかがわからない、何に対しても能動的になることができない、と悩む大学生の姿と、無気力な子どもたちの問題とが重なるのだ。何に対しても意欲を持つことができない子どもや青年の増加を、私たち教員は傍観しているわけにはいかない。

 だからこそ、まずは“能動的に学ぶ人格”を形成することを、教育の出発点に置かなければならない。“能動的に学ぶ人格”が形成されたら、子どもは自ら学び出す。おとなは、その能動的な学びを支えることに注力すればいい。

 社会全体による、子どもや青年への期待が過剰な現代においては、子どもは「教えられたことをしっかり学ぶこと」「おとなの期待どおりに行動すること」といった考えに縛られ、かえって、子どもの内発的な力が潰されているのではないだろうか。一言でいえば、現在の子どもを取り巻く環境は、「子どもを良い方向に導こう」とする働きかけが過剰なのではないかと思う。だからこそいま、社会全体で、“能動的に学ぶ人格”の形成という教育の出発点を大切にしていかなければならないというテーマが浮かび上がってくる。