前回のコラムで、「日本人の労働時間が長い原因は残業を評価する誤った精神論にある」と書いたところ、多くの読者からたくさんのご意見を頂戴した。そこで、再度、この問題について考えてみたい。
若い時、必死に仕事に
打ち込むことは是か非か
最も多く寄せられたコメントは、「若い時、必死に仕事に打ち込むことは、自分を鍛える意味でもかなり有効ではないか(≒長時間労働を行ってもいいのではないか)」というものだった。確かに、「石の上にも3年」という言葉があるように、新しい仕事に就いた時等は、「ともかくガムシャラに仕事に打ち込む」ことは、キャッチアップのためにも必要でもあり、また、かなり意味があることだと考える。
これは何も、若い時に限った話ではない。人生では「踏ん張りどころ」や「正念場」が、誰にも等しく訪れる。友人のスペイン人のバンカーは、例年2ヵ月近い夏休みを取っていたが、ある銀行の頭取として経営の立て直しに招かれた時は、土日もなし、休暇もなしで、1年365日、ひたすら仕事に取り組んでいた。人生を時間軸で考えた時、ひたすら必死に仕事に打ち込む時期があっても当然いいと思う。大学時代が、必死に勉学に打ち込むべき時期であるように。
しかし、だからと言って、たとえば若い人に職制が長時間労働を強いるようなことは、決してあってはならないと考える。それはパワハラそのものであり、「俺が鍛えてやる」などといった、それこそ時代錯誤の不毛な精神論の発露に他ならない。必死に仕事に打ち込むことは、原則としては、あくまで自発的な営為であるべきだ。その意味でも、時間を切り売りする労働ではなく、自分のアタマで考える裁量的労働が、21世紀の労働観の中核に据えられるべきだろう。
また、若い時や大変な時は、それこそ「火事場の馬鹿力」で、感覚的には多少の無理がきくことは紛れもない事実だ。しかし一方で、ありとあらゆる医学的所見が、たとえ若い人であっても、長時間労働は一般に注意力の低下をはじめとした労働生産性の低下をもたらすことを指摘している点を、決して忘れるべきではあるまい。