「ニュースステーション」発「所沢ダイオキシン騒動」の犯人と決めつけられ、地域から大バッシング受けた石坂産業。その後、社員の4割が辞めた。
憔悴しきった創業者の父を見て、「私が社長をやる!」と2代目社長になったのが当時30歳の石坂典子氏。地域から嫌われ、社員には去られ、日々父から怒鳴られ……“絶体絶命”、いや「マイナス1万からのスタート」だった。
あれから12年。現在では、夏祭りに地域の人が700名訪れ、工場に煙突はなく、ホタルが生息。小学生の社会科見学のメッカになり、トヨタ、全日空、日本経営合理化協会、滝川クリステル氏、中南米・カリブ10ヵ国大使……日本全国だけでなく世界中からひっきりなしに見学者が訪れるようになった。
初登場Amazon総合1位。発売3日で重版が決まった話題の『絶体絶命でも世界一愛される会社に変える!』 刊行直後の石坂典子氏が、波乱万丈の会社再建秘話を語る。

【第3回】<br />地域から「出て行け!」と嫌われていたのに、<br />会社の夏祭りに、なぜ700人が押しかけるのか?<br />石坂典子(いしざか・のりこ)
石坂産業株式会社代表取締役社長。「所沢ダイオキシン騒動」最中に2代目社長に。地域から嫌われ、社員の4割が去る絶体絶命の状況から「脱・産廃屋」を目指し、社員教育を断行。12年かけて、トヨタ、全日空、日本経営合理化協会、各種中小企業、大臣、知事、大学教授、タレント、ベストセラー作家、小学生、中南米・カリブ10ヵ国大使まで、日本全国だけでなく世界中からも見学者があとを絶たない企業に変える。 経済産業省「おもてなし経営企業選」選抜。2013年末、首相官邸からも招待。財団法人日本そうじ協会主催の「掃除大賞」と「文部科学大臣賞」をダブル受賞。『心ゆさぶれ! 先輩ROCK YOU』(日本テレビ系)にも出演。ホタルやニホンミツバチが飛び交う里山保全活動に取り組み、JHEP(ハビタット評価認証制度)最高ランクの「AAA」を取得(日本では2社のみ)。「所沢のジャンヌ・ダルク」という異名も。本書が初の著書。(撮影:平山順一)

『ニュースステーション』ダイオキシン報道で10年続く「号泣戦争」へ

「石坂産業反対!」「産廃屋は町から出て行け!」

 いまから12年前、うちの会社の外壁には、こんな横断幕が何枚も貼られていました。

 きっかけは、あるテレビ報道でした。

「所沢産の野菜からダイオキシンが検出されました」

 1999年2月1日、久米宏さんの報道番組『ニュースステーション』(テレビ朝日系、当時)で「汚染地の苦悩 農作物は安全か?」という特集が放映されました。

 すると、「所沢の野菜はダイオキシンに汚染されている」という情報が一気に広まり、食品スーパーなど小売業者が、所沢産はもちろん、埼玉県産の農作物の販売を自主的に停止するという大騒動に発展したのです。

 後日、ダイオキシンが検出されたのは、野菜ではなく、煎茶だったことがわかったのですが、誰も耳を貸しません。

 テレビ朝日が「煎茶のダイオキシンも健康に影響を及ぼすほどのものではなく、報道が誤っていた」と誤報を認めても、騒動は一向に収まりません。

 各農家は風評被害を受けたとして、1999年9月、テレビ朝日に対して損害賠償請求の集団訴訟を起こし、とうとう民事事件に進展しました。

 一住民として騒動を見ていた私でしたが、次のひと言で事態は急変します。

「自分たちがこんなに苦労するのは、ダイオキシンを出している産廃屋がいるからだ!」

 言葉には人を動かす力があります。
 住民の怒りの矛先は、突然私たち産廃業者へ向かい、大バッシングが始まりました。

 こうして私は渦中の人となり、10年に及ぶ「号泣戦争」が始まったのです。

もはや絶体絶命!
このままでは仕事がなくなる!

 当時、所沢市、川越市、狭山市、三芳町の三市一町にまたがる「くぬぎ山」と言われる雑木林には、何社もの産廃業者があり、“産廃銀座”と呼ばれていました。

 石坂産業は「くぬぎ山」最大手の産業廃棄物処理業者であり、焼却炉を3基持っていました。

「石坂産業反対!」「石坂産業は出ていけ!」という横断幕。
 地元の市議会議員は「騒動の元凶であるダイオキシンをゼロに!」と訴え、市民活動団体や環境団体が毎日工場周辺を調査します。

 当時の週刊誌は、煙突から煙の出ている写真を大きく載せ、取材もせずに書きたいことだけを書く。的外れなコメント、身に覚えのない記事ばかりでした。

 しかし、その影響力は絶大。
 取引先のゼネコンや大手ハウスメーカーが反対運動のことを知ると、一方的に取引停止に追い込まれたのです。

 ある大手スーパーゼネコンの営業部長には面と向かって、
「おたくのような会社には二度と持っていかないから」
 と言われ、私は「なぜ、こうまで真実が伝わらないのか?」と叫びたい気持ちを必死になって震えながら抑えていました。

 そして、ついに公害調停が!
 2001年6月、住民が埼玉県に対し、石坂産業の産業廃棄物処理業許可の取消を求める裁判を提起しました。

このままでは仕事ができなくなる! まさに“絶体絶命の窮地でした。