文化は体制化されるべきか?
違和感を覚えた中共のスローガン
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2011年10月。習近平政権が誕生する約1年1ヵ月前、私は北京にいた。
北京五輪(2008年)、建国60周年軍事パレード(2009年)、上海万博(2010年)を“平和的”に終了させた中国共産党。この期間、リーマンショックが発生し、これまで外需依存だった中国経済のあり方に疑問が呈された。高度経済成長を保持するためにトップダウン型で投入された4兆元の刺激策も、今となっては“問題を伴った公共投資”だったと振り返る見方が普遍的だ。
それが昨今の構造改革を不可欠と見る世論につながっている。もちろん、改革がどこまで進み、仮に改革が進んだとして、それが実際にどこまで中国の政治・経済・社会を“軟着陸”させるのかは誰にもわからないだろう。
習近平総書記も含めて――。
時計の針を2011年10月に戻そう。“党威発揚”を目的とした国家大事を閉幕させ、これまで党威の根拠となってきた経済成長にも陰りが見られ始め、かつ世論の注意が1年後に発足する新体制の人事に集まっていた状況下で、中国共産党第十七期中央委員会第六回全体会議は開催された。
会議で集中討議されたのは政治でも経済でもなかった。
文化だった。
2007年の第十七回党大会以来、中国共産党が初めて文化を中心的テーマに据えた中央委員会会議であった。中国共産党が中央委員会の全体会議で文化を集中討議するのは、1996年、第十四期六中全会が思想道徳と文化建設をテーマとして以来のことであった。
「文化体制改革を深化させ、社会主義文化の大きな発展と大きな繁栄を推し進める」
会議の合言葉だ。
このスローガンを見た瞬間、私は何とも言えない違和感を覚えずにはいられなかった。1つは、「文化に体制などあるのか?」という点。言い換えれば、「文化という分野は体制化されるべきものなのか?」という疑問だ。私の理解によれば、共産党支配下の中国において、“体制”の二文字と関連付けて語られる際、その分野では往々にして引き締めが強化される。上からの統制が強まるという意味だ。
2つに、「文化に社会主義が関係あるのか?」という点。言い換えれば、「文化の発展や繁栄をそもそも社会主義か非社会主義かに分ける必要があるのか?」という疑問だ。“社会主義文化”と言及している時点で、議論の対象が政治色の強いイデオロギーの問題に変わってしまうのは必至だ。「我々は資本主義ではなく、社会主義という体制を執る国家である」というイデオロギー対立の構造を暗に主張し、文化に押し付けているからだ。さもなければ、“社会主義文化”などと言う必要はない。