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ANAホールディングス会長 伊東信一郎

「何でもやっていい」
“放任主義”がLCCを育てた

伊東信一郎 [ANAホールディングス代表取締役会長]
【第1回】 2016年3月7日
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日本の空の風景が変わってきている。運賃の自由化やLCCの台頭など、かつての規制時代には想像すらできなかった風景が当たり前になってきた。民間航空会社として元は国営会社だったJALと熾烈な戦いを続けてきたANA。かつての規制時代から現在の緩和時代までを見てきた伊東信一郎・ANAホールディングス代表取締役会長が、日本の航空輸送産業について語る。

Photo by Kazutoshi Sumitomo

日本の空港の再起は韓流のおかげ?

 ANAはホームページで、1952年に日本ヘリコプター輸送が設立されてから、現在に至るまでの約60年間の沿革を、「誕生」「ジェットの時代」「大量輸送時代」「国際線への進出」「規制緩和と競争の激化」「21世紀の環境の下で」という6つの時代に分けて紹介している。

 私が大学を卒業して全日本空輸に入社したのは74年で、その年は「大量輸送時代」が始まった年とされている。その意味では私は“大量輸送の申し子世代”に属する。数年前にはJALがジャンボジェット「ボーイング747」を就航させ、それに対抗するためにANAは、私が入社した74年にロッキード「L-1011トライスター」を就航させた。

 自社のことながら、この時代区分けはきわめて適切だと思う。国内線だけだったANAの累計旅客数が1億人に達する(76年9月)には設立から25年を要していた。しかし2億人になったのは5年後の81年7月であり、さらに3億人になったのは4年3ヵ月後の85年10月である。年間の旅客数が、毎年数百万人規模で増加していく時代だった。

 この連載では、私の入社後から現在にいたるまで、大きく変わった“空の風景”についてまとめてみたいと思っている。まず最初に取り上げるのは、78年の成田空港開業だ。

 大量輸送時代に対応するために国内線は羽田空港、国際線は成田空港という棲み分けがなされ、羽田空港からは台湾のチャイナエアを除き、国際線を飛ぶ飛行機が姿を消した。

 だが成田空港は、用地買収問題が激しい政治闘争になっていたこともあり、1本だけの滑走路で首都圏の国際需要をすべて賄うという変則的な状態が続いてしまった。

 その間、韓国や中国(上海)、シンガポールなどのアジアの国々は、ハブ機能を重視して空港拡大を続けていた。約30年を経て彼我の差は歴然としている。現在、日本の成田・羽田空港と結ばれている世界の都市は、発着枠の拡大もあり少しずつ増え、105都市。しかし韓国の仁川・金浦は140都市、香港は148都市、シンガポールは128都市と結ばれている。例えば仁川などは、中国やアジアの各地だけでなく、ウズベキスタンなどCIS(独立国家共同体)諸国への路線など、目を見張るネットワークを構築している。

 さらに世界に目を転じれば、例えばロンドンは世界282都市、フランクフルトは222都市、パリは249都市、ドバイが216都市といった具合に、熾烈な“ハブ空港競争”を繰り広げている。

 まだ日本だけが、一人取り残されたような状態にある。国、そしてその首都が発展していけば、自ずと人、物、金が動くようになる。そのためには空港の充実は必須である。しかし、日本はその重要性を認識するのが遅れたのではないか。その背景には、長く日本の空港がアジアのなかでハブ空港として優位性を誇っていたことへの慢心もあったのかもしれない。

 強いハブ空港を持てなかった東京は、羽田・成田の両空港を効果的に活用するしかない。ANAは、「羽田空港を再国際化してほしい」という活動はずっと続けていた。これには大変な労力がかかった。しかし政府には、成田空港誕生の歴史的な背景から、羽田と成田を棲み分けるという明確な方針があり、そこを突き破るのは並大抵ではなかった。また成田空港に多くの発着枠、つまり既得権を持つJALは、羽田から国際線を飛ばすことにはネガティブであった。

 膠着状態に動きが出始めたのが、2003年の羽田空港から金浦空港への国際チャーター便の運航開始だった。実は前年の02年には台湾のチャイナエアラインとエバー航空が成田空港に移り、羽田からの国際定期便はすべて終了していた。

 金浦路線の開設の背景にあったのが02年5月のFIFAワールドカップ日韓共催である。この大会に合わせてチャーター便を運航し、好評を博したため翌03年からは、定期チャーター便という定期便に限りなく近い方式で運航することができるようになった。

 折しもヨン様の『冬のソナタ』で韓流ブームが始まっており、金浦路線は活況を呈した。なによりもお客さまが「羽田からの国際線は便利だ」と見直してくださったことが、羽田再国際化の動きを加速した。同じ頃に成田空港で2本目の平行滑走路の供用が始まったこともあり、羽田と成田が刺激し合うような形で、やっとハブ空港の重要性も見直されるようになっていく。ただし、「羽田は国内、成田は国際」という行政の方針は変わらず、「ペリメーター」と呼ばれる約2000kmの範囲外には就航できない時代が続いた。欧米も含めて就航できるようになったのはつい最近、10年のことである。

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伊東信一郎 [ANAホールディングス代表取締役会長]

1950年宮崎県生まれ。九州大学経済学部卒業後、1974年全日本空輸入社。2001年人事部長、2003年取締役、2007年副社長を経て、2009年代表取締役社長に就任。羽田空港の再国際化など、航空産業を取り巻く環境が激変する中で、国際線ネットワークの拡充や全日空のホールディングス化などを推進した。2015年より現職。


ANAホールディングス会長 伊東信一郎

国際線はJAL、国内線はANA――。かつて、そんな棲み分けを行政から求められていた時代が長かったが、今やANAは国際線ネットワークを拡充する成長戦略を打ち出している。航空産業、特に国際線事業は、ボラティリティが高い事業として知られる。世界同時多発テロやSARS、リーマンショック、そしてライバルであるJALの破綻と再生など、これまで幾度となく危機に遭遇してきた中で、「自分の足で立つ」ことを諦めずに、危機を乗り越えてきたANAの経営哲学を語る。

「ANAホールディングス会長 伊東信一郎」

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