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【第22回】 2016年3月29日
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宮田矢八郎 [産業能率大学経営学部教授]

仏教とキリスト教の
共通項はどこでしょうか?

仏教とキリスト教に接点はあるのか、ないのか? あるとすれば、どのような? これは比較宗教学的なテーマですが、宗教の狭間に生きている人間には切実な問いかけです。今回は、その点をまとめます。

 自己超越へのアプローチの違いを複眼的に見ることによって、自己の立場への洞察が深まります。

 仏教とキリスト教、両者ともに正しいならば、必ず接点があり、両宗教の核心である解脱と救済とは翻訳が可能なはずだ。これが私の比較宗教の方法論的な視点です。

 解脱の中心は本源的な歪みの捨断・根切りとこれによる因縁の消滅で、これがキリスト教の中心であるイエスの贖罪への同一化による救済と何らかの翻訳可能な接点があるのではないか。少々、大胆過ぎる問題設定をしてみました(注1)。

 ちなみに、紀元1世紀、キリスト教の成立以降の仏教との文化的な交流や経典の影響について私はほとんど興味がなく、それは学問としての比較宗教学の専門家に任せたいと思います。大事なことは本質論です。

 そこで、一応の整理を試みました。以下の通りです。

 結論から言えば、この整理からわかるように、イエスの贖罪――恩寵――を匂わせるようなアプローチは釈迦にはありません。仏教の要点はあくまでも修行、キリスト教の要点はあくまでも信仰で、両者に翻訳可能な接点はない。これが結論です。

 とは言いながら、宗教は違っても、人間が人間である限り、「人間側の営み」としての自己超越への「思想と実践」には共通するものがあることがわかります。「信」を中心とする以下の四点です。

【共通項1「信」】
 最初の共通項の指摘、それは「信」です。ちなみに、ここは「第17回 応用問題としての宗教」とかぶるところです。

 キリスト教においては、イエスの贖罪という事実の啓示を土台として、人間側の条件は唯一、「信」――受容あるいは委託――でした。「信」によって救済を自分に体現する。「あなたの信仰があなたを救った」(マルコによる福音書10-52)。福音書にはこのような言葉が何ヵ所も記されています。人間の営みとしての「信」が、既に供えられたところの救済を自分にもたらしたのであると。

 他方、釈迦の探求、求道、修行を貫いて、その根底にあったのは「信」でした――大信根――。この信の土台の上で、不惜身命、捨て身の覚悟と本源的な欲望の捨断を追求しました。この「信」がなければ、あるいは弱ければ、修行の完成には至らなかったでしょう。

 要点は、「信」に支えられた修行の結果として、「彼岸に渡り」「安らぎ(=ニルヴァーナ)を知り」「もはや生まれ変わることはない」「最後の生である」との確証を得たことです。「信」に支えられた修行の結果として、釈迦の前に現れたのは「涅槃(=ニルヴァーナ)」でした。ここをもって釈迦は自己超越の世界に入ったことを悟り、修行の完成を宣言したのです。

 余談ながら、中国禅の最盛期唐代(618~907)、その末期に活躍した臨済(?~867)の言行録『臨済録』(1120)には「信不及」という言葉が何回も出て来、禅の究極が「信」にあることが強調されています。参考までに、その中の「三、示衆」の一文を引用します。

 「云何なるか是れ法。法とは是れ心法。心法形無くして十方に通貫し、目前に現有す。人、信不及にして、便乃名を認め句を認め、文字の中に向って仏法を意度せんことを求む。天地懸かに殊なる」。

 朝比奈宗源老師の訳注によれば、「いったい法とは何だと思う。法とは心である。心は形は無いが、十方世界に充ち満ちて、目の前に生き生きとはたらいている。大抵の人はこれを信じきることができないで、菩提だ涅槃だという名相や言句を学び、文字や概念の中に、仏法を求めようとする。天と地ほどの見当違いだ」とあります。至言です。

 「信」の働きが、仏教における悟りの要点である。臨済にあっては、「信」とは、宇宙に充ち満ちた見えない心を、わが心で見て見失わぬ、心眼力の強さでした(注2)。

 ここでは釈迦当時の「不生のもの」「作られざるもの」が「心」という言葉で人格としてとらえられています。キリスト教に相当近づいた表現です。キリスト教においてはもともと人格神ですから、言わんとすることは同じなのです。

 見えない心を見て見失わぬ心の働き――「信」――は、文字――知。教義の真理確認――とは無限の距離にあるのです。

【共通項2 反省】
 反省という一般的な用語を使いましたが、キリスト教では悔い改めです。「悔い改めて福音を信じ」よ。これがキリスト教の全部なのですが、悔い改めの内容は「罪から離れる」と総括され、個々の悔い改めの内容についてはパウロの書簡等における信者へのアドバイスのレベルにとどまっています。

 仏教においては、罪の姿の描写とそこから抜け出す方法に関して十分な思索と吟味が加えられており――「四苦八苦」「三毒六煩悩」「八正道」――、「悔い改め」の総合的、哲学的、実践的な内容が整理されていると評価されます。

 しかし、現実問題を考えると、どちらがどうなのかは簡単に言えません。すべては「自分の」罪の解決ですから、仏教においてもそこ――「自分」の苦しみの原因――に焦点が定まるまでは、「悔い改め」の効力はないのです。

【共通項3 覚悟】
 イエスの示した信仰の道の厳しさ――「自分を捨て自分の十字架を負って私に従ってきなさい」(マルコによる福音書8-34))、「自分を憎むものでなければ」(ルカによる福音書14-26)、「あなた方はこの世では悩みがある。しかし勇敢でありなさい」(ヨハネによる福音書16‐33)――は、釈迦の修行の心構えを見れば当然のことと思い至ります。

 クリスチャンは、信仰に伴う苦難は特殊例外的なケースとの受け止め方をしがちですが、ここは当然のことと受け止める覚悟がいるように思います。

 禅宗三祖に鑑智僧璨(?~606)という方がいます。この人に『信心銘』という著書があって、仏教の真髄を示す8文字の対句が73句、584文字あります。その冒頭の言葉は、「至道無難 唯嫌揀択」です。道に至るのは難しくない。ただ、快を好み苦を嫌う、その感覚的な好き嫌いの心を抑えることだというのです。

 このような人生態度は、第19回 イエスの贖罪で述べた部分と重なって来ます。すなわち、人生の幸不幸、禍福、運不運は、大方は自己実現の視点の見方にすぎませんが、そうではなくて、自分の人生から問われている意味を、淡々と自分を生きることによって実現することこそ、自己超越の視点の生き方であると言っているのです。これが仏教の「覚悟」で、釈迦の探求は後世をしてこのような覚悟に導く体のものだったわけです。

【共通項4 成熟度】
 新生、解脱という自己超越の巨大なステップを通過したとして、揺れ動く生身の人間のその成熟度――より端的に言えば本物度――はどのように測られるのでしょうか。

 キリスト教は生身の人間が聖霊を受けて新生するのですから、霊肉の葛藤が生じます。その葛藤を思いがけないものが生じたと怪しむのではなく、当然と見切る覚悟、胆力と日々刻々の逸脱からの軌道修正の激しい戦いがあります。

 仏教では修行が成って解脱したとして、ひとつの巨大な結論を見たのでしょうが、しかし、仏教の伝統には「さらに参ぜよ、三十年」とあります。要するに、解脱の境涯を維持していく、それこそ日々刻々の「とらわれの意識」の排除――止観――という修行があります。この解脱と修行の関係を道元は「修証一等」――修行とその結果である解脱とは同じものだ――と喝破しましたが、両宗教に共通する視点でもあります(注3)。

 そして、両者における成熟度の検証は繰り返しの指摘になりますが、オリジナルな、逆に言えば物まねでない善の実践、善の歩みの形成で、その事実によって、目に見えない内面における自己超越の証しとするということです。この点もまた、両者に共通に問われることです。

 結論です。人間は二つの世界宗教の「免許皆伝」を得るほどの能力も時間も持っていないわけですから、自らの宗教の到達点を味わうばかりです。そして、その到達点周辺での見える景色も味わう苦しみも導かれる境涯も共通項があるわけですから、そこをもってお互いに尊敬するということだろうと思います。

(注)
1.二つの宗教を経験的に知ることは、不可能に近いほど難しいし方法論の違いもあるのですが、さらに、そのひとつ手前のところでは、恩寵の世界と前提なき修行の世界という違いはありますが、人間の歩みに関しては、共通部分が発見できるのだろうと思われます。

 キリスト教の視点から大胆な仮説を述べさせていただきたいのですが、もし釈迦の求道の中で「神」、「キリスト」との出会いがあれば――あるとすれば――、そこには贖罪と福音の体系化があろうし、自我の根切りに関してもっと明瞭に十字架と復活に関連させて語れたでしょうが、そうではなかった。

 とは言いながら、釈迦は仏教として知られるひとつの解決――執着からの離脱と涅槃体験――を、恐らくは「神」――不生のもの――にあって体得したのだろうし、考えられることは心の実質的な変化をもたらす実質的な何かが宗教の違いを超えて存在し、それこそ人間の心が体得する実質的な宗教、究極の宗教かも知れないということです。

2.信は自己超越の核心たる「境涯の変化」をもたらす、恐らく最重要のファクターと思われます。これは「模範としての人間」を見ることによってのみ形づくられるもののようです――人から人へ――。指導者の人格の中に自ずから窺われる「境涯」、その重さ、具体化したその姿勢、態度、他者との関係性を見ることによって、同じものが自分のうちにも形成される。だからこそ「人間」、「模範となる人間」が重要なのです。

3.察するに、巨人釈迦にあって、解脱は文字通りの大解脱で、人間の完全な変容を見たのでしょうが、釈迦に倣う修行者達にあっては始祖と同様のレベルというわけにはいかず、その後の修行の重要性が強調されるようになったのだと推察されます。

 この点はキリスト教においてはより明瞭で、懺悔と信仰の繰り返しという姿が強調され、なべて、そのような「見切り」に解脱や救済と同等の重みが見出されてきたのであろうと思われます。

 

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宮田矢八郎 [産業能率大学経営学部教授]

 

1948年長崎県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、中小企業金融公庫(現・株式会社日本政策金融公庫)入庫。1999年産業能率大学教授。主な著書に『経営学100年の思想』『収益結晶化理論』『理念が独自性を生む』(以上、ダイヤモンド社)、『禅資本主義のかたち』(東洋経済新報社)、『コンサルティング会計』(PHP研究所)、『情報創出型金融』(金融財政事情研究会)などがある。

 


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『1枚のシートで経営を動かす』著者で、産業能率大学経営学部教授の宮田矢八郎先生による経営、財務、金融などさまざまな分野の最新動向、トピックをわかりやすく紹介する連載です。

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