「被告人が車椅子に戻って座り、右手を軽く丸める形にして右膝の上に置いていたので、その拇指と人差し指の間に鑑定人が鉛筆を黙って置いたところ、3本の指が微妙に動いて鉛筆を把持し、更には鉛筆の中ほどを3本の指で持って、くるくるとプロペラ様に振ってみせた。(中略)鉛筆を取り戻そうとすると、被告人は右手で強く握って離さない。鑑定人が引っ張ると、被告人はいよいよ硬く握り締める。(中略)以上の検査から判明したことは、意志発動が可能で、鉛筆を握って離さないことも、これを離すこともできるということである。逆に言えば、握る能力はあるのに握らないことがあるということである」

これほど恣意的なものに
権威が与えられていいのか

 ……わかるだろうか。つまり西山医師は、麻原が手に握った鉛筆を握り締めたことで、詐病であることが判明したと書いている。なぜならば鉛筆を握り締めたり握らなかったりなどの意思発動が可能なのだから、麻原の精神状態は正常であり、現在の症状は精神状態の悪化を装っているだけなのだということらしい。

「すなわち平生はものを言わないけれど、ものを言う能力はあり、実際にものを言うことがあるのである。(中略)このような状態は昏迷ではない」

 鉛筆を握ったり握らなかったりするから正常。僕にはやっぱりわからない。ならば生後間もない乳児も被告席に座ることができる。ラッコやアライグマにも訴訟能力があることになる。

 いずれにせよ西山医師による鑑定は、通常なら認められる弁護人の立会いも認められないまま密室で行われた。作成された鑑定書は裁判所に提出されて、麻原の訴訟能力は認定され(つまり現在の異常な言動は詐病であるとされ)、一審の死刑判決が確定した。

 ……やはり冷静ではいられなくなる。麻原法廷の不合理さと奇妙さ、そしてその帰結としてオウムの事件の解明がほとんどなされなかったこと、だからこそその後の日本社会は、オウムによって喚起された危機意識で大きく変質したことは、『A3』でたっぷり書いた。僕が今この連載で書きたいことは、(足利事件も含めて)法廷における精神分析が、これほどに曖昧で恣意的で危なっかしい領域でありながら、必要以上の権威を与えられていることへの違和感だ。

 かつて精神鑑定は、被告人の権利を守るための重要な要素だった。でもオウム以降、加速する厳罰化の流れにおいて、その意味付けは逆転した。検察側の主張を補強する材料として、恣意的に使われることが多くなった。

 マスメディアに帰属する人たちが、国民ほぼすべてから憎悪されている麻原を擁護するかのような言説は提示しづらいと思っていることは知っている(納得はしないけれど)。ならばせめて足利事件における精神鑑定について、マスメディアはもう少し、問題視すべきではないだろうか。精神分析とはどのような意味を持ち、どのような限界があるのか、考察すべきではないだろうか。