明治以降西洋の様式建築を吸収して大きくなった東京。国内外の建築家に多くの実作のチャンスをもたらした。まるでいつも建築エクスポが進行しているかのようだ。

文=五十嵐太郎/写真=fotolia

 近年、多くの外国人観光客が日本を訪れるようになったことから、東京の迎賓館赤坂離宮(1909年)が通年公開を開始した。これは明治時代における西洋の様式建築の到達点を示す国家プロジェクトであり、威風堂々としたネオ・バロックの建築である。

 実は観光とはおおむね建築めぐりでもあるから、観光立国を唱えるならば、建築が重視されるはずだ。東京駅(1914年)も、空襲で焼けた後、当初と違うかたちで屋根が修復されていたが、2012年にオリジナルに戻す復元工事が完成した。また日本初のオフィス街を彩った三菱一号館(1894年)も、高度経済成長期に解体されていたが、高層ビルの谷間で2010年に精密なレプリカ再建がなされた。歌舞伎座は隈研吾の設計によって、先代のデザインを残しながら、2013年に高層タワーを備えた第5期のGINZA KABUKIZAに生まれ変わった。

1889年に開場した歌舞伎座は何度か建て直しを経て2013年に“5代目”となっている。

 丸の内一帯も、規制緩和による高層化が著しく、下部に近代建築の外観を保存しながら、上部にタワーを接ぎ木する黒子のようなビルが増えている。日々、東京の建築は更新を続けているのだ。

 震災や戦争で都市が壊滅的な被害を受け、戦後もスクラップ・アンド・ビルドが激しかった東京は、さほど多くの歴史的な建築が残っているわけではない。コンクリートの躯体に和風屋根をのせた帝冠様式の九段会館(1934年)もとり壊され、外観の一部だけを残して再開発される予定だ。またインドの建築様式を採用した個性的な築地本願寺(1934年)は、隣りの中央卸売市場と同時代に誕生したが、後者は市場が移転したら解体されてしまう。これは近代の貴重な大空間であり、仮に築地市場が移転しても、現代美術の国際展などに活用したら良いのではと個人的に思っている。

何度か火災に遭った築地本願寺は古代インド様式をモチーフに伊東忠太設計で34年竣工

 ともあれ、空中に高く持ち上げられた江戸東京博物館(1993年)や、移築保存のテーマパークというべき江戸東京たてもの園を訪れると、江戸から昭和の建築史をたどることができるので、興味がある方にはおススメだ。

 むしろ、世界的なレベルで見ると、1960年代以降の建築に目を見はるものがある。明治以降、西洋の建築を学習し、気がついたら追い抜いていたのが、この時代だからだ。その代表と言えるのが、丹下健三による国立代々木競技場である。

 メタボリズムという前衛的な建築運動が1960年に始動し、その思想を表現した黒川紀章の中銀カプセルタワー(1972年)は海外の建築関係者が東京で必ず見学する有名な作品だ。ル・コルビュジエが設計した国立西洋美術館(1957年)は世界遺産に登録されたことで注目されたが、日本には彼の影響を受けた弟子が多く、前川国男は向かいの東京文化会館(1961年)、吉阪隆正は八王子のセミナーハウス(1965年)、坂倉準三は新宿西口広場(1966年)などを手がけている。

 バブル期には、フィリップ・スタルクのスーパードライホール(1989年)など、海外のスターが東京で数多くの前衛建築を実現した。現在、中国やドバイで起きているような現象を20年先取りしていたのである。

墨田区吾妻橋のスーパードライホールは仏のフィリップ・スタルクの設計で89年に竣工

 21世紀以降は、ルイ・ヴィトンやプラダなどのブランドが、銀座や表参道で建築家と組んで、ユニークな店舗群が出現した。グローバリズムの時代に突入し、今度は日本の建築家が海外で多くの仕事を抱えるようになった。

 丹下健三、槇文彦、安藤忠雄、妹島和世、伊東豊雄、坂茂は建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞を受賞した建築家である。6組というのは、国別ではアメリカに次ぐ数字であり、この10年間ならば1位だ。日本の建築家が、いかに世界で高く評価されているかがわかるだろう。彼らが拠点を置くのが東京である。つまり、現代建築の実験場=東京が彼らを育てたのだ。

◎五十嵐太郎(いがらし・たろう)
建築史家、建築評論家。博士(工学)。東北大学大学院教授。朝日新聞の書評委員を務め、月2回ほどの頻度で寄稿中。新刊は『日本建築入門』(ちくま新書)。研究室のプロジェクトとして考古学とコラボレーションし、独特の空間デザインによって大量の縄文土器を群島状に並べた「先史のかたち」展を東北大学で開催。