昨秋、米国務省の外交公電をネット上で大量に暴露し、世界中に衝撃を与えた内部告発サイト「ウィキリークス」。その告発内容は、中東・北アフリカの民主化運動の背中を押したと言われる。そのウィキリークスの創業者であるジュリアン・アサンジと早くから共同チームを組み、数々のスクープを世に送り出したのが、調査報道で有名な英国の有力紙「ガーディアン」だった。彼らはいかにしてアサンジと出会い、共同作業に踏み切ったのか。また、なぜその後決別するに至ったのか。ガーディアン側の主力メンバーで、『ウィキリークス アサンジの戦争』(講談社刊)の共著者であるデヴィッド・リー記者に、上下二回に分けて、共闘と決別までの全真相を聞いた。
(聞き手/ジャーナリスト、大野和基)

――ジュリアン・アサンジに出会ったのはいつか。

世界を揺るがした外交機密漏洩事件秘話<br />英ガーディアン紙の特命チームメンバーが語る<br />ウィキリークスとの共闘と決別の全真相(前編)英「ガーディアン」紙のベテラン記者、デヴィッド・リー。ウィキリークスとの共同作業では中核的な役割を果たした。

 2010年3月、ノルウェーで開かれたジャーナリスト会議に行ったときだ。私も彼もそこでスピーチをすることになっていた。会議のあと、パーティがあって、そのとき、ジュリアンと初めて話をした。

 彼は「あなたに見せたいものがある」と話しかけてきた。すでに午前3時を回っていたが、ホテルの私の部屋に招くことにした。部屋にチェーンをかけると、ジュリアンはいつも持ち歩いているナップサックからノートパソコンを取りだし、あるビデオを私に見せてくれた。バグダッドの通りで、ヘリコプターから民間人が撃たれているシーンだった。ロイター通信の記者2人が巻き添えになった、あの事件だ。これは“Collateral Murder(巻き添え殺人)”と呼ばれて、のちに公開された有名なシーンだが、私は非常に大きなショックを受けた。今までの人生で、もっともショッキングな映像だったといっていい。

 われわれはこのビデオをアイスランドで編集し、公開した。その直後に、イラクにいた米軍兵士のブラッドリー・マニングがジュリアンにこの映像や他の複数の資料を渡した容疑で逮捕起訴された。

 このことで他にも極秘資料があることを知り、私は同僚のニック・デイヴィスとともに、アサンジを必死に探し回った。アサンジは国から国へと短期間で隠密裏に動き回っているのでつかまえにくかったが、最終的にベルギーにいることを突き止めた。ニックはアサンジと数時間交渉し、他の資料もわれわれに提供してもらうことで同意を得た。そこにはイラクやアフガニスタンの戦争ログ、外交公電が含まれていた。

――ガーディアン紙からは、ウィキリークスとの共同作業プロジェクトには結局何人参加したのか。

 もっとも忙しいときは約40人に膨れ上がった。パキスタンやモスクワの特派員を呼び寄せたり、あるいはイラクで以前取材をしていた記者たちも呼び戻した。ただし、40人全員が記者というわけではない。最近のジャーナリズムには記者だけではなく、インターネットのテクニカルな部分がわかる人材も必要だ。たとえば、データビジュアライザーと呼ばれる人たちだ。彼らの仕事は、一例をあげれば、アフガニスタンで起きたすべての爆破事件を地図上にプロットして、スタートボタンを押すと起きた時間とともにわかるようにグラフィクスで見せることだ。そういう技術者も入れて、40人くらいだ。