2017年1月21日、「10万人に1人」といわれる脳リンパ腫(がんの一種)との闘病生活の末に、“最後の映画スター”だった俳優の松方弘樹が亡くなった。生前、「僕は役者ですから、総理もやくざも関係ない。人間的魅力のある人には否応なく惹かれるし、演じてみたい」と語っていた松方弘樹は、実際に主役も脇役もこなせる器用な役者として第一線に立ち続けた。だが、その裏側では、なかなか代表作に恵まれず、何度も振り落とされそうになりながらも、這い上がってきた男でもあった。世間では、“軟派”という印象の強い俳優だが、本当はどんな役者だったのか。『無冠の男 松方弘樹伝』を書いた伊藤彰彦氏に話を聞いた。(聞き手/「週刊ダイヤモンド」編集部 池冨 仁)
――日本映画の歴史を振り返ると、これまで数多くのスターがいました。そのような中で、松方弘樹という役者の特徴はどのようなところにあったのですか。
端的に言うと、松方弘樹という役者は、ものすごく「芸域の広い人」でした。
例えば、過去に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の“三英傑”をすべて演じた俳優は、松方弘樹以外にいません。また、勝海舟、真田幸村、猿飛佐助など、日本史の教科書に登場する人物も演じています。さらには、田岡一雄(山口組三代目組長)、柳川次郎(柳川組初代組長)、稲川聖城(稲川会初代会長)、波谷守之(波谷組組長。元三代目山口組舎弟)、菅谷政雄(菅谷組組長。三代目山口組の2次団体)、川内弘(川内組初代組長。三代目山口組の3次団体)など、“その筋”で知らない人はいない有名なやくざの大親分に扮しています。もれなく演じている、という感じですね(笑)。
松方弘樹の芸域の広さは、日本映画を代表する大スターだった鶴田浩二、高倉健、菅原文太でも、及ばないほどです。彼は、「主役もしくは脇役しかできない“ひと色”の役者になりたくない」と考えていたことから、将来の生き残りを賭けて“いくつもの色”を持った役者になるために、意図してさまざまな役柄に挑戦し続けた人でした。
産業としての日本映画のピークは1958年(昭和33年)で、松方弘樹は日本映画の全盛期に陰りが見え始めた60年にデビューします。映画のジャンルで言えば、現代劇→時代劇→任侠映画→実録映画→時代劇大作→一本立て映画→Vシネマ(低予算のビデオ映画)と舞台が変化する中でも、“しんがり”が務まる役者として、しぶとく生き残ります。
もとより、日本映画は、長期低落傾向にありました。松方弘樹は、自らの主戦場を映画に置いていたとはいえ、80年代半ばには「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」などのバラエティ番組にも出演しました。過去のコワモテ俳優のイメージから一転し、笑顔を絶やさずに白いハンカチで額の汗を拭う“松方部長”の姿を覚えている方も多いと思います。あれは、本業の役者活動を続けるべく、「世間様から忘れられないように」と考えてしていたことです。テレビ時代劇の「名奉行 遠山の金さん」もそうです。