今、メディアで話題の「マレーシア大富豪」、小西史彦氏。小西氏は24歳のときに無一文で日本を飛び出し、一代で上場企業を含む約50社の一大企業グループを築き上げた人物。マレーシア国王から民間人として最高位の称号「タンスリ」を授けられた、国民的VIPでもある。その小西氏がこれまでの人生・ビジネスで培ってきた「最強の人生訓」をまとめた書籍『マレーシア大富豪の教え』が刊行された。そこで小西氏と親交があり、自身も戦後、焼野原で露天商から身を起こし過酷なビジネスの第一線を生き抜いて日本を代表する企業のトップとなった鈴木喬・エステー会長と共に「持たざる者がビジネスで成功する秘訣」について語り合う最終回。
>>第2回から続く
眼底細胞が切れるほどのストレスだった合弁会社の精算
小西 辛い経験と言えばですね、私のキャリアのなかで最大のピンチは、日本の大手企業と組んだ合弁会社の精算でした。シンガポールが特恵関税の適用から外れそうだというのでマレーシアにプリント配線基板製造の合弁会社を設立したのです。
鈴木 シンガポールが急速に成長し始めた頃ですね。確か1970年代の後半から80年代の初め頃の話ですな。シンガポールに対する特恵関税が解除されれば、マレーシアなどに工場を移さなければならなくなる。
小西 えぇ。合弁会社の設立は80年のことです。マレーシアの中央政府や州政府は大喜びで、日本企業が49%、州の開発公社が30%、そして私も21%出資して設立の運びとなりました。社長には、私が就きました。しかし、いつまで経ってもシンガポールへの特恵関税が解除されない。(シンガポール首相だった)リー・クアンユーは実にしたたかでした。
プリント配線基板の製造設備への投資は多額です。製造しても製品に競争力がないので毎日毎日100万円ずつの赤字になりました。年間で3億6000万円です。これは堪えましたね。
鈴木 ゴルフをしている間にも100万円赤字だ(笑)。
小西 そのゴルフと言えば、パットをしたときにグリーンが波打って見えたことがあります。眼底の細胞が切れてしまったのです。それぐらい追い詰められていました。製造設備は5年もすると陳腐化しますが、債務超過になっているので新規投資もできない。ついに85年に工場閉鎖と合弁会社の精算を決めました。マレーシア中央政府やペナン州政府は工場閉鎖と合弁会社清算には、断固反対だったのですけれどもね。
鈴木 精魂尽きたという状態ですか。
小西 当時、私は40歳ぐらいでしたが、その若さでも尽きました。結局、紙切れになったペナン州開発公社所有の株式を、日本企業に買ってもらうことにしたのです。そうすることにより、開発公社を株主でなくしてしまう作戦でした。
そうしたら財務担当の常務が、「あんたに欺されてどんどん金をつぎ込んで、揚げ句にうちが額面で買い戻すとは何事だ。頭がおかしいのじゃないか」と怒るわけです。しかし社長が偉い人でしたね。「小西さん、あんたのアイデアいいよ。うちの会社には大卒の頭のよい人間はたくさんいるが、あんたのような大胆な発想ができる人間は1人もいない。これでないと撤退などできない」と言ってくれたのです。
鈴木 ほぉ、なかなか豪胆な社長ですね。