「戦略」は粗い方向性だけでいい

 ここで一点だけ注意を促しておきたいのですが、私が言っている「独学の戦略」というのは、それほど精緻なものである必要はありません。いや、むしろ精緻なものにしない方がいいと思います。

 人の学習には一種の偶然=セレンディピティが働きますから、独学によって学ぶ内容をガチガチに固めて、それ以外のインプットは極力しない、などということを心がけると、かえって偶然の学びがもたらす豊かな洞察や示唆を得られないことにもなりかねない。

 私自身はむしろ、本当に大きな気づきや学びは、むしろ偶然からのインプットによってしか得ることができないのではないかと思っています。というのも、過去の歴史を振り返ってみると、大きな発見・発明の契機になっているのは、実は偶然であることが少なくないからです。

 アレクサンダー・フレミングは、たまたま実験に失敗したペトリ皿の上で、細菌がカビを避けるようにして繁殖しているのを見てペニシリン発見のヒントをつかんでいますし、パーシー・スペンサーはレーダーの実験をしていた際に、胸のポケットに入れたチョコバーがいつも溶けることにヒントを得て電子レンジを発明しています。

 要するに「知の創造は予定調和しない」ということです。この「予定調和しない」ことを前提にして知識創造のプログラムを組めるかどうかが、組織や個人の知的パフォーマンスの向上という点でとても重要な要件になっています。

 脳科学者の茂木健一郎氏は、この「予定調和のなさ」について「偶有性」という言葉を用いて説明していますが、これは独学者にとっては大変重要なコンセプトで、身もふたもない言い方をすれば、学びは「偶然の機会」を通じてしか得られないということなのです。

 したがって「独学の戦略」を策定する際には、大まかな方向性を定める程度にとどめ、あえて大きな緩みや余白を残しておくことが大事です。「一体なんの役に立つのかわからない……けど、なんだかすごい」という情報は、いずれ必ず知的生産を支える大きな武器になります。

 この点については後ほど改めて取り上げますが、まずは「独学の戦略は、大きな方向性だけでよく、あまり細かいものである必要はない、むしろ精緻にしない方がいい」ということを知っておいてほしいと思います。

 学びの始点においては自分が何をしたいのか、何になりたいのかはわからない。学んだあとに、事後的・回顧的にしか自分がしたことの意味は分からない。それが成長するということなんです。
 成長する前に「僕はこれこれこういうプロセスを踏んで、これだけ成長しようと思います」という子どもがいたら、その子には成長するチャンスがない。というのは、「成長する」ということは、それまで自分が知らなかった度量衡で自分のしたことの意味や価値を考量し、それまで自分が知らなかったロジックで自分の行動を説明することができるようになるということだからです。
 だから、あらかじめ、「僕はこんなふうに成長する予定です」というようなことは言えるはずがない。学びというのはつねにそういうふうに、未来に向けて身を投じる勇気を要する営みなんです。
――内田樹(ブログ「内田樹の研究室」より)