そのこともあってか金正恩は、今年に入り、李雪主夫人とは別の女性に男児を産ませている。逆上した夫人は直ちにその男児を奪い取り、自分の息子として育てることを宣言して、生みの母親を粛清したという。韓国の国会では今年8月下旬になってから、国家情報院が「北の李雪主夫人に3人目の子どもが産まれた」と報告しているが、実情は違うのだろうか。

 韓国の高官が脱北者から聞いたとするこれらの話の真贋を、筆者が判断することは難しい。ただ、もし事実だとすれば、粛清された側にもそれなりの理由があったとはいえ、親族をここまで情け容赦もなく粛清できるものだろうか。にわかには信じ難い顛末である。指導層のこのような行為が国民の耳にどこまで届き、流布しているかは知る由もないが、万が一にも知れ渡れば、恐怖と暗黒の管理社会に絶望していくに違いない。

突然側近が消えて行く
不可解な日常風景

 労働党や人民軍の幹部をはじめ、いわば側近たちも政権トップと接触する機会が多いだけに、その日の気分や逆鱗に触れただけで、突然粛清の指示が発せられ、消されていく。そんな劇画のような記述が、北朝鮮に関する市販本の中で平然と紹介されていること自体、衝撃的である。赤裸々な記述が不特定多数の読者の目に触れ、心に焼き付けられて流布していくとは、異常な事態である。

 金正日の専属料理人として13年間、金ファミリーに仕えてきた藤本健二氏は、著書『北の後継者キム・ジョンウン』(2010年、中公新書ラクレ)の中で、ある宴会の席上で「奴らを撃ったのか」「はい、昨日撃ちました」というさりげない対話を耳にして、震え上がったと述べている。軍内部の不満分子を一度に二十数人も処刑した際の立ち話であったという。

 別の宴会では、大将の1人である金明国が「戦争が始まってもお守りします。地下室も完成しました」という趣旨の発言を立ち聞きして以来、彼が宴会に出てくることはなかったとも書いている。「地下室」とは核シェルターのことで、国家機密を公開の場でバラしてしまったお咎めを受けたのではと見ている。

 朝鮮半島情勢に強いジャーナリストの五味洋治氏によると、2011年12月の金正日総書記の葬儀にまつわる不可解なエピソードも恐怖である。本件は、彼の著書『金正恩を誰が操っているのか―北朝鮮の暴走を引き起こす元凶―』(2013年、徳間書店)の中で「側近たちが消えていく謎」として紹介されている。

 2011年12月の金正日総書記の葬儀で、霊柩車の左側に寄り添った軍人4人がその翌年、相次いで地位を外され、消えていったという謎めいた話である。4人とは、李英鎬人民軍総参謀長をはじめ、金永春人民武力相(国防相)、金正覚総政治局第一副局長、禹東則国家安全保衛部第一副部長である。