Photo by Yoshihisa Wada

ゲーム機器とエンターティンメントの発達史は、IT革命の側面史でもある。発達と進化をリードしてきたのは日本メーカーで、なかでもミリオンセラーのゲームを連発してきたのがカプコンだ。創業者である辻本憲三会長CEOが自らの「ゲーム史」をまとめる。(「辻」の文字は正確には一点しんにょう)

逆境に育ったことにむしろ感謝

 私が生まれ育ったのは、奈良県の橿原市。飛鳥川と田んぼがあるだけの町だった。家が貧しく、川遊びだけが楽しみの少年だった。学校へは「ただ通っている」だけで、勉強は身につかなかった。

 親父は鍛冶屋の四男坊で、家業を継ぐことなく家を出て独立した。とはいえ手に職があったわけでもなく、給料取りに納まることもできず、自分で商売をするのだが、決して商才があったわけではないのだろう。おかげで、生活は困窮していた。

 もっとも、新しいものに興味を向けるのが好きな人だった。私が小学校5年生(1951年)の頃だったか、セロハンの袋を大量に仕入れてきたことがある。お菓子を詰める袋として、お菓子屋さんに配達する手伝いをさせられたことをよく憶えている。しかし、その商売も1年ぐらいしか続かなかった。

 お菓子といえば、母親の妹の旦那が隣町でお菓子の卸をやっていて、店の手伝いを頼まれることは嬉しかった思い出だ。今の人たちには想像もつかないだろうが、当時のお菓子は、ガラスの蓋がある木箱に入れた量り売りだった。蓋を開ければ、いくらでも食べられた。

 お菓子は200種類ぐらいあり、叔父は、「手伝ってくれたらなんぼ食べてもええで」と鷹揚だった。だから私は、戦後のお菓子の味はすべて知っている。つまみ食いの効用だ。終戦後の食料の乏しい時期だったから、これだけは恵まれていた。

 親父は私が中学校2年生のときに他界した。私は長男で2人の弟がおり、私が苦労を引き継がなければならなかった。高校への進級を諦めて就職先を探したが、「夜間(定時制)だけでも受けて」という母親の懇願がなければ高校に通うこともなかっただろう。

 昼間は近所にある釣り具(浮き)をつくる工場で働き、夜は高校に通った。入学した畝傍(うねび)高校は、奈良県を代表する進学校だが、一方で300人の定時制の生徒を抱えていた。そういう時代だったのだ。

 授業を受け、柔道部の部活が終わるのは午後10時。昼からなにも食べていないので空腹は極限に達していて、家に帰ると、当時出始めたばかりのインスタントラーメンで腹を満たしていた。それで生きながらえているようなものだった。