そこから二人で、動作解析や運動力学に基づく投球フォームの修正に取り組んだ。驚くことに成果はすぐに現れる。修正を加えるたびに球速がアップ。信じられないことに、わずか2カ月後に、土橋の言葉どおり、僕の投げるボールの最速値は140キロを超えるようになった。

 今から振り返ると、その時、土橋の言葉を信じて本当によかったと思う。もし当時の僕が、137、8キロのボールを投げられるピッチャーだったら、きっと彼のアドバイスを冗談で済ませていただろう。しかし、「自分には足りない部分が無数にある」と認めていたからこそ、ただの学生トレーナーだった彼の理論を信じられた。失うものがない者の強みと言ってもいいだろう。「自分は他人より優れていない」という事実を受け入れられたからこそ、僕は野球選手として大きな成長を遂げることができたのだ。このときの体験が、僕のその後の野球人生を大きく変えたように思う。

僕が「松坂世代」で良かったと思うワケ

 僕が「自分には優れたところがない」という話をすると、多くの人からは「そんなはずはないでしょう。きっと才能があったんですよ」という答えが返ってくる。

 たしかに僕は、浜田高校(島根県)2年生と3年生の時に、夏の甲子園大会に出場している。

 全国の高校球児の憧れである甲子園のマウンドに立ったのだから、本来ならば「自分にも優れた点がある」と自信をもってもいいはずだ。しかし、3年生の夏の大会で僕は、さらに自分の未熟さを痛感することになる。

 野球ファンの方ならご存知だと思うが、僕は野球界で「松坂世代」と呼ばれる選手のうちの一人だ。世代の名称の由来にもなっている松坂大輔を筆頭に、杉内俊哉、新垣渚、村田修一、藤川球児、久保康友……僕の同学年には、錚々たる顔ぶれが並ぶ。

 後に福岡ソフトバンクホークスでチームメートとなる杉内(鹿児島実高)は、当時から素晴らしいピッチャーで、同じサウスポーでも僕とは別格の実績を誇っていた。夏の甲子園1回戦の八戸大一高戦ではノーヒットノーランも達成している。

 ところが彼は、2回戦の横浜高戦で打ち込まれて0-6で敗戦。しかも松坂にホームランまで打たれて敗れたのだ。ノーヒットノーランを記録したピッチャーが、次の試合で6失点も喫するのは信じられなかった。

 周知のとおり、松坂率いる横浜高は、その後、PL学園や明徳義塾と激戦を繰り広げ、大会に頂点に立つ。僕らは運良くベスト8まで勝ち進んだが、そんな喜びも吹き飛んでしまうほど、彼らのハイレベルな戦いぶりは別世界の出来事のようだった。