日本人の誇りだったソニーの業績が落ち込み、日の丸半導体最後の砦と言われたエルピーダメモリが経営破たん……。そんな中で日本人は自信を失い、仕事や就職では保守的な傾向に走る若者が続出している。この不透明で混沌とした状況の中で、今、私たちは何をどう考え、行動すればいいのか――。
この2月に『日経平均を捨てて、この日本株を買いなさい。』を上梓した凄腕ファンドマネジャーの藤野英人さん、『自分のアタマで考えよう』が11万部突破のヒットとなっている人気ブロガーちきりんさんとの特別対談が実現。日本の企業実態に誰よりも精通している藤野さんと、世の中を俯瞰する達人である、ちきりんさんに日本の将来についてどう思っているかを聞いてみた!

ふたりとも金融業界出身!
実は共通点が多かった

藤野 はじめまして。今回の対談は、私がちきりんさんにお会いしたいと思って編集部にお願いしたんです。だから、もう今は、目標の半分は達成したかなと(笑)。

 ツイッターもブログも拝見してるんですが、ちきりんさんの話に違和感がないんです。ほとんど「そうだよね、そうだよね」と言いながら読んでいます。これからは就職や転職、投資でも、既存の価値観にとらわれずに自分のアタマで考えて、業界や企業を選んでいく必要がありますよね。それが私が書いた本のテーマ「日経平均を捨てよう」=「日本を代表する大企業という既存の価値観を捨てて株を選ぼう」ってことなんです。

ちきりん ありがとうございます。藤野さんの本、面白く読ませていただいて、私も共感するところが多かったです。

日本の将来は明るい?暗い?<br />自分のアタマで考えてみよう!藤野英人(ふじの・ひでと)レオス・キャピタルワークス取締役・最高投資責任者(CIO)。 1966年富山県生まれ。90年早稲田大学卒業後、国内外の運用会社で活躍。特に中小型株および成長株の運用経験が長く、22年で延べ5000社、5500人以上の社長に取材し、抜群の成績をあげる。2003年に独立、現会社を創業し、現在は、販売会社を通さずに投資信託(ファンド)を直接販売するスタイルである、直販ファンドの「ひふみ投信」を運用。ファンドマネジャーとして高パフォーマンスをあげ続けている。ひふみ投信 http://www.rheos.jp/ ツイッターアカウント@fu4

藤野 では、まず私から自己紹介をさせていただくと、私は1990年に現在の野村アセットマネジメントに入社し、そこに6年半いました。その頃はちょうど外資系の資産運用会社がどんどん国内に入ってきたところで、私もヘッドハンターから外資系の運用会社に行かないかと声かけられてすごく悩んだんです。

 いわゆる「ガイシ」行くにはリスクがあると思ったんですが、よく考えると外資系に行くことによるリターンもあるじゃないですか。一方、このまま野村アセットに残り続けることを考えると、逆にそのリスクもすごく高いんじゃないかと。

 野村アセットに残る自分と、外資系の運用会社に行く自分という2人が居たとして、10年後にどちらが成長しているかを考えると、たぶん競争環境に置いた方が絶対に成長するだろうと思って、現在のJPモルガンアセットマネジメントに入社しました。その後、ゴールドマンサックスアセットマネジメントを経て、2003年に独立、現在は個人投資家向けの「ひふみ投信」のファンドマネジャーとして、日本企業を選んで投資をしています。

ちきりん 外資に移って、カリスマファンドマージャーとして華々しく活躍されていたんですね。さぞ、すごい報酬だったのだろうと思いますが(笑)、なぜ辞めて独立されたのですか。

藤野 日本と外資の運用会社で10年以上ファンドマネジャーとして働いた結論として、今の業界の体制で投資信託を続けていても、誰も幸せにならないなという思いがどんどん大きくなったんです。販売する人も運用する人も、お客さんもみんな幸せそうじゃないんです。

 そこで、起業して、現在に至ります。今は、「ひふみ投信」の運用以外でも、大学でベンチャーファイナンスを教えたり、東証アカデミーのフェローを務めたりして、投資教育の活動にも力を入れています。

ちきりん では私も自己紹介をさせていただきますね。大学を出てすぐに日本の証券会社に入りました。部署はコーポレートファイナンスで、企業が債券や株式発行を通して、資金調達するのを助ける仕事です。

 働いていたのは5年ほどでしたが、まさにバブル真っ盛りの頃で、大蔵省(現財務省・金融庁)や日銀、興銀(現みずほコーポレート銀行)の人などを接待しまくっていました。12月の半ばは銀座でしか食事をせず、今日はステーキ、明日はお寿司で、あさってはフレンチ、というような生活でした。(笑)

藤野 わかる、わかる、まさにバブルですね(笑)

ちきりん もちろん平日の仕事も忙しいのですが、土日も住んでいた寮に黒塗りの車が迎えにきてゴルフに連れて行かれるんです。一度パンツスタイルでいったらすごく怒られて、何のためにお前を連れて行くと思っているんだと言われたり(笑)。今の時代からは想像もできないことですが、当時はそういった「法人需要」の市場が非常に大きくて、それにどっぷりつかった生活をしていました。

藤野 ちきりんさんは、その後バブル絶頂期の皆が浮かれている時に証券会社を辞めたわけですね。それはどうしてだったんですか。

ちきりん ちょうど世界的な銀行規制である「BIS規制」が厳しくなってきたところでした。基準が統一されると、株高に頼っていた日本の銀行の融資も抑制されていくだろうと思えたし、社会人になって日の浅い私の目にも、当時の日本企業の時価発行ファイナンス・バブルがずっと続くとは思えませんでした。

 当時は、国債引き受け業務も国内の銀行と証券会社が独占していましたが、外資の投資銀行もそのシェアを狙い始めていて、「日本の国債マーケットは外資に対して非常に閉鎖的だ」という批判の声が海外から強まっていたり…。いろんな意味で国内の証券市場が外資企業に開かれていくという機運が出始めていて、今後は国内の大手証券も外資系投資銀行との競争が激しくなることは明らかだったんです。でも、内部からみていても、こんな古いビジネスの進め方をしている日本の証券会社は、そのうち苦しくなるだろうと思いました。

藤野 なるほど。

ちきりん ちょうどそんなことを考えていた時に、外資系の投資銀行に転職した先輩が「こっちにきたら」と誘ってくれたんです。でもいろいろ話を聞いているうちに、投資銀行業務に携わるんだったら、アメリカのビジネススクールに行っておいたほうがいいかも、と思いたち、留学することにしました。

 その後2年間、楽しくアメリカでの学生生活を謳歌して、すこしだけ外資の投資銀行で働いてみたんですけど、すぐに「私は投資銀行で働くにはいい人過ぎる」とわかって(笑)。

 結局、違う業界ですがやはり外資系の会社に転職して、そこでは結構長く働いていました。そして1年半ほど前にその会社も辞めて、「働かない生活」を始めたという次第です。