ヘリングやバスキアと一緒に遊んでいた。

都築 僕の話に戻ると、正社員のオファーを断り、マガジンハウスから離れて京都に住むようになりました。同志社の近くですね。仕事はFAXがあればできていましたから。そこで京都大学の聴講生になって授業を聞いてはその足で現物の建築を見に行っていったりしていました。
 あと東京にいた頃は、海外の著名なアーティストと遊んだりしていましたね。たとえば(キース・)ヘリングや(ジャン=ミシェル・)バスキアといった面々と。ところが日本の「美術手帖」を開いても向こうでは人気なのに、全く扱われていない。そこで京都書院という版元の人と知り合って『Art Randam』という現代美術の全集をつくりました。1989年頃で全102巻。一冊48Pほどです。

なぜ一度もサラリーマン編集者になることなく、仕事を続けたか――都築響一の場合。【前編】竹熊健太郎(たけくま・けんたろう)
1960年、東京生まれ。編集家・フリーライター。多摩美術大学非常勤講師。高校時代に作ったミニコミ(同人誌)がきっかけで、1980年からフリーランスに。1989年に小学館ビッグコミックスピリッツで相原コージと連載した『サルまん・サルでも描けるまんが教室』が代表作になる。以後、マンガ原作・ライター業を経て、2008年に京都精華大学マンガ学部の専任教授となり、これが生涯唯一の「就職」になるが、2015年に退職。同年、電脳マヴォ合同会社を立ち上げ、代表社員になる。4月に『フリーランス、40歳の壁――自由業者は、どうして40歳から仕事が減るのか?』を上梓。

竹熊 ここまでお話を伺ってみるとアート畑のお仕事が多いですね。都築さんは編集者の注文でやる仕事もありましたか?

都築 ええ、それも受けました。でも自分の活動からあまりに離れるものは注文自体受けられないけれど。京都から戻ってきて若い連中と遊びながら、そいつらの部屋が面白くて撮り溜めたもので作ったのが『TOKYO STYLE』(1997年)です。

竹熊 「週刊SPA!」で連載されていた『珍日本紀行』はその頃ですか。

都築 いや、もっと後ですね。だから30代は20代と打って変わって日本をいろいろ旅していましたね。

竹熊 カメラを始めたのはいつなんでしょうか。

都築  『TOKYO STYLE』の頃です。4×5のカメラで撮影したんです。それまでは編集者としてカメラマンと付き合ってきたけど、部屋を撮るなんて素人では難しいと思っていた。ただ企画をあらゆる出版社に断られた時点で、自分で撮る以外に選択肢はなかったですね。だからヨドバシで買って、フィルムの入れ方をカメラマンの友人に教わって、スクーターに載せて撮影をしていった(笑)。

※後編は5/4(土)公開です!

なぜ一度もサラリーマン編集者になることなく、仕事を続けたか――都築響一の場合。【前編】